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ラリー・ハイズル : ミニ英和和英辞書
ラリー・ハイズル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ラリー・ハイズル : ウィキペディア日本語版
ラリー・ハイズル[ちょうおん]

ラリー・ユージン・ハイズル(''Larry Eugene Hisle'' 1947年5月5日 - )は、メジャーリーグベースボールの右投右打の外野手アメリカ合衆国オハイオ州ポーツマウス出身。
== 略歴 ==
1965年6月8日に、フィラデルフィア・フィリーズからドラフト2巡目で指名を受け、8月16日に選手契約を結んだ。プロ4年目となる1968年に、フィリーズでメジャーデビューを果たした(デビュー戦の対戦相手はロサンゼルス・ドジャース。ハイズルは「6番・センター」で試合に出場し、3打数2安打という結果)。1968年は計7試合に出場し、11打数4安打で打率.364という数字を残した。メジャー2年目となる1969年は、レギュラーに定着し、145試合に出場。20本塁打、18盗塁を記録するなど、打撃・走塁両面で高い能力を発揮。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票でも4位につけた(1位は159試合に出場し、打率.271、4本塁打、46打点を記録したドジャースのテッド・サイズモア二塁手)。しかし、その後は伸び悩み、1970年126試合、1971年36試合と、結果を残せない苦しいシーズンが続いた。
1971年シーズン終了後の10月21日トム・ハットン一塁手とのトレードでドジャースに移籍する事になった。しかし、故障の為、ドジャースでは1試合も出場しなかった。そして、1972年10月26日ルディ・アローヨ投手マイナーリーグの選手であるグレッグ・ミリカンとの2対1のトレードでセントルイス・カージナルスに移籍。更に同年11月29日に、ジョン・カンバーランド投手と共にミネソタ・ツインズに移籍(交換相手はウェイン・グランジャー投手)。1972年のシーズンオフだけで2度も移籍を経験した。
ツインズには1973年から1977年までの5年間在籍。1975年以外のシーズン全てで140試合以上に出場し、5年連続で2ケタ本塁打を記録。特に1977年は控えながらオールスターゲームにも出場した(ハイズルは代打で試合に出場し、ゲイリー・ラベル投手と対戦。1打数ノーヒット)。更にシーズン119打点を記録し、打点王のタイトルを獲得。MVP投票でもリーグ12位につけた(1位は155試合に出場し、打率.388、14本塁打、100打点を記録したチームメイトのロッド・カルー一塁手)。そして11月2日にFAに。自身最高のシーズンオフにフリーエージェントになるという、最高の1年間を送った。
FAとなっていたハイズルは、1977年11月17日ミルウォーキー・ブルワーズと契約を結んだ。移籍1年目となった1978年は自己最高・リーグ2位タイの34本塁打(1位はボストン・レッドソックスジム・ライス外野手46本、もう1人の2位はカリフォルニア・エンゼルスドン・ベイラー指名打者。ちなみにライスはこの年のMVP。ハイズルは3位)を放つなど前年に引き続く活躍を見せたが、1979年から1982年までの4年間は故障続き(4年間で計79試合に出場。打率.248、15本塁打、46打点)。結局、1982年5月6日、奇しくもハイズルの誕生日の翌日が自身最後のゲームとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラリー・ハイズル」の詳細全文を読む




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