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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラリー・アルトン・パリッシュ(Larry Alton Parrish , 1953年11月10日 - )は、アメリカ合衆国・フロリダ州出身の元プロ野球選手(内野手)。2015年までMLB・デトロイト・タイガース傘下AAA級トレド・マッドヘンズの監督を務めていた。 == 来歴 == MLB通算256本塁打とパワーの面で期待され、にNPBのヤクルトスワローズに入団。同年は42本塁打、103打点をマークし本塁打王のタイトルを獲得、ベストナインに選出される。しかし三振も多く、池山隆寛、広沢克己と3人揃って「100三振トリオ」と呼ばれた。三振した後、ベンチで暴れる事もあったため、ストレス解消のための「ラリー君人形」なるサンドバッグが置いてあったとさえ言われている。 1989年オフ、監督に就任したばかりの野村克也は三振の多いパリッシュの打撃を低評価し、ヤクルトを自由契約となる。セシル・フィルダーが退団して代役を探していた阪神タイガースが獲得。入団したパリッシュは、シーズン序盤から前年の本塁打王の貫禄を見せ付け、本塁打を量産。同年にはオールスターゲームにも出場した。ところが、8月に古傷の膝が悪化してしまい、その時点でホームラン王争いで単独トップに立っていたのにも係わらず、8月27日の試合を最後に突然引退し物議を醸した〔【8月27日】1990年(平2) 本塁打王放棄!パリッシュ突然の退団 川藤惜別の贈り物 スポーツニッポン 2008年8月22日〕。 当時の読売ジャイアンツのエースだった斎藤雅樹を大の苦手としており、2年間で斎藤からはホームランを1本も打てず、阪神時代にはホームランはおろか、ヒット自体を打てずに終わった。池山曰く、斎藤が先発と聞くと「いやだ、いやだ」と顔をしかめていたくらい苦手意識を持っており、実際に斎藤が出る試合で欠場したことがある(池山が著書でコメント)。さらに阪神移籍後の対巨人戦においては強行出場を命じられ、4打席4三振をくらうなど、散々であった。 引退後は、デトロイト・タイガース傘下のA級ナイアガラフォールズ、AA級ジャクソンビルの監督などを経て、にデトロイト・タイガースのベンチコーチに就任。シーズン途中にバディ・ベルに代わり監督に就任し、まで指揮を執った(1999年に在籍した選手に木田優夫がいる)。からAAA級トレドの監督となり、・にはチームを2年連続でリーグ優勝に導いた。また、には惜しくもリーグ優勝は逃すものの地区優勝は達成し、地区優勝3連覇を成し遂げた。当時のマイナーリーグ監督の中では、名将と呼べる存在だったと言える。 は、アトランタ・ブレーブスで打撃コーチを務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラリー・パリッシュ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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