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ラリー・ブッカー(Larry W. Booker、1952年1月6日 - 2003年11月29日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ルイジアナ州バトンルージュ出身〔。 ムーンドッグ・スポット(Moondog Spot)およびラリー・レイザム(Larry Latham)のリングネームで知られ、ヒールのタッグプレイヤーとしてWWFやミッドサウス地区で活動した。 == 来歴 == デビュー後の1970年代後半は、ラリー・レイザムのリングネームでジョージアやアラバマなどのディープサウスを転戦。1979年、テネシー地区にてウェイン・ファリスとブロンド・ボンバーズ(''The Blonde Bombers'')を結成〔。メンフィスのCWAでは、ジェリー・ローラー&ビル・ダンディー、リッキー・モートン&ソニー・キングなどのチームとAWA南部タッグ王座を争った。1980年と1981年にはラリー・ラザンの表記で国際プロレスへの来日が予定されていたが、直前に中止になっている〔『忘れじの国際プロレス』P81、P99(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。 1981年5月、ムーンドッグ・スポットを名乗りWWFに登場。過去の犯罪歴のためアメリカで活動できなくなったムーンドッグ・キングの後任として、ムーンドッグ・レックスの新パートナーとなってザ・ムーンドッグス(''The Moondogs'')に加入し、キングが保持していたWWFタッグ王座を継承した。6月8日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、新日本プロレスの藤波辰巳&谷津嘉章の挑戦も受けている。 その後もレックスとのムーンドッグスでの活動を続け、ジョージア・チャンピオンシップ・レスリングやプエルトリコのWWCなど各地を転戦。1983年4月4日には古巣のCWAにて、スティーブ・カーンとスタン・レーンのファビュラス・ワンズを破りAWA南部タッグ王座を獲得している〔。1984年より揃ってWWFに復帰し、1987年までジョバーを担当。シングルでは1985年11月7日に開催されたWWF初のPPV『ザ・レスリング・クラシック』に出場、16人参加のワンナイト・トーナメント1回戦でテリー・ファンクからリングアウト勝ちを収めるも、2回戦の準々決勝でジャンクヤード・ドッグに敗退した。 WWF離脱後はレックスとのコンビを解消し、ムーンドッグ・スパイク(ビル・スミスソン)を新パートナーにムーンドッグスを再編。1987年10月にはスパイクと共に全日本プロレスに初来日した。シングル戦線でも活動し、メンフィスでは1987年5月から6月にかけてジェフ・ジャレットを相手にCWAヘビー級王座を争い、アラバマでは1988年1月3日にトム・プリチャードからNWAアラバマ・ヘビー級王座を奪取した。 1991年からはCWAの後継団体USWAを主戦場とし、スパイク、クジョー(ラニー・キーン)、スプラット(ロバート・ホワイト)、2代目レックス(ネイサン・ランドルフ)、ローバー(ポール・マックナイト)ら歴代のムーンドッグと組み、1996年にかけてUSWA世界タッグ王座を再三獲得。ムーンドッグスのボス的存在となるが、USWAが活動を停止した1997年、自身もセミリタイアした。 しばらくリングから離れた後、2003年3月19日にジム・ドゥガンとのタッグチームでTNAのPPVに登場。以後、新人のムーンドッグ・パピー・ラブ(マイク・フラワーズ)と新生ムーンドッグスを結成し、同年5月に旗揚げされたインディー団体メンフィス・レスリングへの参戦を開始した。 2003年11月29日、ミッドサウス・コロシアムで行われたメンフィス・レスリング主催によるジェリー・ローラーのバースデイ・イベント "Jerry Lawler's Birthday Bash" での試合中に心臓発作を起こして衰弱状態となり、病院に搬送されたが死去した〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラリー・ブッカー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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