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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラリー・ヘニング(Larry "The Axe" Hennig、本名:Lawrence Henry Hennig、1936年6月18日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミネソタ州ミネアポリス出身。 "ミスター・パーフェクト" カート・ヘニングの父親であり、技巧派の息子とは対照的に重量級のラフ&パワーファイターとして活躍した。スペリングの通り、ファミリーネームは「ヘニッグ」が原音に近い表記だが、本項では日本のプロレス史における慣例的な表記を使用する。 == 来歴 == ミネソタ州立大学ではレスリングとアメリカンフットボールで活躍したが、在学中に結婚して子供が生まれ、家族を養うために中退。大学の先輩バーン・ガニアの指導のもと、1956年にプロレスラーとしてデビューする。1960年、地元ミネアポリスでガニアが興したAWAに参戦。1962年1月にはデューク・ホフマンと組んでAWA世界タッグ王座争奪トーナメントに出場、決勝でカルミコフ兄弟を破りタッグ王者となった。 同年4月、力道山時代の日本プロレスに初来日し、『第4回ワールド大リーグ戦』に出場。リーグ戦では同時来日したルー・テーズ、ディック・ハットン、フレッド・ブラッシーとも対戦している。北欧系の出自であることから当時はヴァイキング・ギミックで活動しており、日本でも「ヴァイキングの末裔」などと紹介され「北海の獅子王」の異名を付けられた。1964年にはAWAを離れ、NWA圏のテキサス州アマリロ地区に進出。同じギミックのザ・ヴァイキング(ボブ・モーゼ)と組んでフリッツ・フォン・エリック&ケン・ルーカスからサウスウエスト・タッグ王座を奪取した。 アマリロでは風貌と体型が似通った若手のハーリー・レイスと意気投合し、レイスを新パートナーにAWAに凱旋。"プリティボーイ" ラリー・ヘニングと "ハンサム" ハーリー・レイスというギャング風のニックネームを冠したヒールの極道コンビとして悪名を高め、1965年1月30日に元祖・極道コンビのディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを破り、AWA世界タッグ王座に返り咲く〔。以降もブルーザー&クラッシャーを相手に、同タイトルを巡る熾烈な抗争を展開した。1966年にはレイスと共にオーストラリア(ジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征し、豪州版の初代IWA世界タッグ王者チームに認定されている。 レイスとのコンビ解消後は1970年11月、国際プロレスに来日。11月19日の足利市大会にて、ボブ・ウインダム(後のブラックジャック・マリガン)と組んでグレート草津&サンダー杉山から国際プロレス版のIWA世界タッグ王座を奪取した。シリーズ最終戦の12月12日、台東区体育館にて草津と杉山に奪還されるも、シリーズ中は草津&杉山、杉山&ラッシャー木村、草津&木村を相手に3回の防衛に成功し、一時はタイトルの海外流出が危ぶまれた〔『THE WRESTLER BEST 1000』P63(1996年、日本スポーツ出版社)〕。戴冠中の12月10日には、群馬県吉井町にて杉山が保持していたIWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。 その後もAWAを主戦場に、1972年にはヒール時代のダスティ・ローデスともタッグを組んだ。1973年1月には国際プロレスに再来日、ザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)をパートナーにIWA世界タッグ王座への返り咲きを狙い、1月25日に板橋区体育館にて新王者チームのストロング小林&グレート草津に挑戦している。同年下期からはキャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにWWWFに登場、11月12日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、ペドロ・モラレスのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。翌1974年1月30日にはボルティモアのシビック・センターにて、前年12月10日にスタン・スタージャックを破ってWWWF世界王者に返り咲いたブルーノ・サンマルチノにも挑戦している。 WWWFサーキットを終えるとAWAに戻り、ラリー "ジ・アックス" ヘニングを名乗ってベビーフェイスに転向。以降1970年代全般に渡り、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、スーパースター・ビリー・グラハム、バロン・フォン・ラシク、ボリス・ブレジニコフ、バリアント・ブラザーズ、ブラックジャック・ランザ、ボビー・ダンカン、スーパー・デストロイヤー、アンジェロ・モスカ、ロード・アルフレッド・ヘイズなどのヒール勢と抗争を繰り広げた。 この間、日本へは1976年10月末から12月にかけて新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木とシングルマッチで2回対戦。12月8日には横浜文化体育館にて、パット・パターソンと組んで坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座に挑戦した〔。1981年には、11月末より開幕した全日本プロレスの『'81世界最強タッグ決定リーグ戦』にハーリー・レイスとの往年の名チームで出場、昭和の4団体への全参加を果たす。当時のヘニングは体力的にピークを過ぎており、かつての弟分レイスのフォローを仰ぐ形となったが、ブルーザー・ブロディやタイガー・ジェット・シンらを相手に一歩も退かない貫禄を見せた。大会中は、ドリー・ファンク・ジュニアとのシングルマッチも行われている〔。 1980年代に入り息子のカート・ヘニングがデビューすると親子タッグを組むようになり、1982年4月27日にオレゴン地区で、リップ・オリバー&マット・ボーンを破りNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を獲得。AWAではキャリア末期の1985年にロード・ウォリアーズとも抗争した。引退後は、1990年代末にカートが参戦していたWCWのリングサイドに姿を見せたことがある。 近年はミネソタ州のセントクラウドに居住し、不動産会社を経営〔。2007年3月31日にはWWE殿堂に迎えられたカート・ヘニングの顕彰セレモニーに出席した。同席したカートの息子である孫のジョー・ヘニングも同年7月にプロレスラーとしてデビューしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラリー・ヘニング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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