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ラルフ・ウォルドフ・エマソン : ミニ英和和英辞書
ラルフ・ウォルドフ・エマソン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ラルフ・ウォルドフ・エマソン ( リダイレクト:ラルフ・ワルド・エマーソン ) : ウィキペディア日本語版
ラルフ・ワルド・エマーソン

ラルフ・ウォルドー・エマーソンRalph Waldo Emerson1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国思想家哲学者作家詩人エッセイスト無教会主義の先導者。
Waldoはウォルドウウォルドワルド、Emersonはエマソンエマスンなどとも表記される(英語では、Emersonは第1音節にアクセントがある)。
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワースカーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、アメリカの文化の独自性を主張した。
エマーソンは次第に当時の宗教的社会的信念から離れ、1836年の評論'Nature'において、超越主義哲学を世に打ち出した。続いて草分け的な仕事として1837年に'The American Scholar'と題した演説を行い、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、アメリカの「知的独立宣言」であると評した。〔Richardson, 263〕
エマーソン主要な評論のほとんどを、まず講演用に書いてから出版用に改めた。最初の二つの評論集'Essays: First Series'と'Essays: Second Series'は、それぞれ1841年と1844年に出版された。それらは'Self-Reliance'、'The Over-Soule'、'Circles'、'The Poet'、'Experience'が含み、彼の思想の核心である。'Nature'とこれらの評論によって、1830年代半ばから1840年代半ばにかけての10年間は、エマーソンにとって最も実り多い時期となった。
彼の評論は後の思想家、著述家、詩人に大きな影響を与えた。エマーソンは、自身の中心教義を一言にすると、「個人の無限性」であると語った。〔Ward, p. 389.〕エマーソンはまた、共に超越主義者であるヘンリー・デイヴィッド・ソローの師であり友であることが有名である。
== 幼年時代、家族、教育 ==
エマーソンは1803年5月25日、マサチューセッツ州ボストンに生まれた。〔Richardson, 18〕両親はルース・ハスキンスと、プロテスタントの一派であるユニテリアン派の聖職者であるレフ・ウィリアム・エマーソンである。彼は母方の伯父ラルフと父方の祖祖母レベッカ・ワルドから名付けられた。〔Allen, 5〕エマーソンは成人できた5人の息子達の2番目で、他の兄弟はウィリアム、エドワード、ロバート・バークレー、チャールズである。〔Baker, 3〕他の3人の子供達、フェーベ、ジョン・クラーク、マリー・カロリーヌは、成人する前に亡くなった。〔
1811年5月12日、8歳になる10日程前に、父が胃癌のため若くして他界した。〔McAleer, 40〕 エマーソンは一族の女性達に助けられながら、母親に養育された。叔母のマリー・ムーディ・エマーソンが、彼に特に深く影響を与えた。〔Richardson, 22?23〕彼女は断続的に共に暮らし、1863年に亡くなるまでエマーソンと文通し続けた。〔Baker, 35〕
エマーソンの正規教育は、1812年、9歳の時、ボストンラテン語学校に始まった。〔McAleer, 44〕1817年8月、14歳でハーバード大学に入学した。そこでは新入生の連絡係に任命され、不品行の学生を呼んで教員に伝えることが求められた。〔McAleer, 52〕3年生の半ばからエマーソンは読んだ本のリストと、後に'Wide World'と呼ばれることになる、何冊もに及ぶ日記をつけ始めた。〔Richardson, 11〕エマーソンは学費をまかなうために仕事もした。それには学生食堂のウエイター、マサチューセッツ州ウォルサムの伯父サムエルの元での臨時講師があった。〔McAleer, 53〕4年時にエマーソンは、ミドルネームのワルドを使うことに決めた。〔Richardson, 6〕 エマーソンは学級詩人としての慣例に習い、正式な卒業1ヶ月前の1821年8月29日、18歳の時、ハーバード大学卒業式で自作の詩を発表した。〔McAleer, 61〕彼は学生として突出せず、59人の級友のちょうど中位で卒業した。〔Buell, 13〕
1826年、エマーソンは健康問題から温暖な気候を求めて移り住んだ。最初にサウスカロライナ州チャールストンに行ったが、十分な暖かさはなかった。〔Richardson, 72〕そこでさらに南の、フロリダ州セントオーガスティンへ行った。そこで彼は長いこと浜辺を散策し、詩を書き始めた。セントオーガスティンにいる間に、ナポレオン・ボナパルトの甥アシーユ・ミュラ王子と知り合いになった。ミュラはわずか2歳年上で、彼らはとても親しくなった。二人は宗教、社会、哲学、政治についての啓発的な議論をした。エマーソンはミュラを、自身の知的教養における重要人物ととらえていた。〔Field, Peter S., Ralph Waldo Emerson: The Making of a Democratic Intellectual, Rowman & Littlefield, 2003, ISBN 0-8476-8843-7, ISBN 978-0-8476-8843-2〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ralph Waldo Emerson 」があります。




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