|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ラン : [らん] 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network) ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 藤 : [ふじ] 【名詞】 1. wisteria
澤 宗紀(さわ むねのり、1979年4月20日 - )は、日本の元プロレスラー。東京都杉並区出身。 == 経歴 == :高校はレスリング部。 ;1998年 :高校卒業後にアマチュアバトラーツ(B-CLUB)に入門。出張クラスで練習していた。ちなみに大学時代は演劇部だった。 :当時珍しかったプロレス団体によるアマチュアマッチ『第1回アマチュアバトラーツ グラップリングB』においてベストファイター賞に選出される。その時に石川雄規から『何か、おまえとは数年後にタッグを組んでいる気がする』と言われ、それから8年後のビッグマウス・ラウド後楽園大会においてその言葉が現実のものとなっている。 :その後はバトラーツでの練習を主に担当していた岡本魂が怪我でフェードアウトしたため、つられるようにフェードアウト。 ;2000年 :U.W.F.スネークピットジャパンに入門。 :大学卒業後はCM会社に就職するも、わずか2週間で退社。 ;2002年 :9月14日、東京・Z-Zone NAGAYAMAにてキングダム・エルガイツにおける高津十樹戦で総合格闘技プロデビュー。 ;2003年 :8月31日、プロレス団体TAMAにおける長瀬館長戦で素顔でのプロレスデビュー(これ以前に「スラッシュ・サード」というマスクマンとしてペドロ高石と対戦している)。 :その後、素顔でプロレスリングrに移籍し、週末は新狭山にあるショーパブで薄いマットを敷いての1試合2,000円という非公式な試合や、国際プロレス、アジアン・スポーツ・プロモーションで経験を積むが行き詰まり、2005年、原点である石川雄規のバトラーツに出戻る。 ;2005年 :6月5日、格闘探偵団バトラーツにおける関本大介戦で再デビュー。 :11月27日、全日本コンバットレスリングオープン選手権80kg級優勝(出場選手は澤を含め3人だった)。 ;2006年 :3月22日、ビッグマウス・ラウドのリングにおいて、念願の石川雄規とのタッグが実現。 :12月31日、インディーサミットにおける飯伏幸太とのやりあいの中、わき腹をアバラ軟骨亀裂骨折し、2007年1月頭の出場する大会をキャンセル。 ;2007年 :1月27日ZERO1-MAXの大会で復帰。 :6月29日、IGF旗揚げ戦「闘今BOM-BA-YE」に出場し、石川雄規にTKO勝ち。師匠越えを果たした。 ;2009年 :3月オーストラリア・アデレードで行なわれた芸術祭 「アデレード・フリンジ・フェスティバル」において、日本からのサムライアートとして富豪2夢路、澤宗紀、小笠原和彦、ヌンチャク・アーティストの宏樹が招待され試合を行なった。試合は『地下プロレスEXIT』として行なわれ、会場はレストランに薄いマットを敷き、3日間試合を行なった。また、ストリートパフォーマンスとしてアデレード市街で澤宗紀vs富豪2夢路の路上マッチ、宏樹によるヌンチャクパフォーマンス、小笠原和彦による空手の演舞が行なわれた。 :5月29日、旧JCBホールで行われたキン肉マン生誕30周年を記念したプロレスイベント『キン肉マニア2009』においてウォーズマンの「中身」を担当したとされている。 :6月28日、DDT後楽園ホール大会のメインで組まれていた無差別級挑戦者決定トーナメント決勝戦を、飯伏幸太が急性咽頭炎のため欠場。そのピンチヒッターとして高木三四郎が即決でオファーしたのが澤だった。2日前の緊急決定、さらにはその日の2試合目にもかかわらず、後楽園ホールを揺るがす大熱戦を展開。そんな男気に打たれた高木三四郎がその場で両国国技館大会出場を打診し、参戦が決定した〔2009年8月23日の「両国ピーターパン 〜大人になんてなれないよ〜」パンフレットから引用。〕。また、これがきっかけとなり後に高木と「変態大社長」を結成することとなる。 :9月、頸堆ヘルニアのため欠場。 :10月24日、復帰戦で佐藤耕平、KAMIKAZE組が持つNWAインターコンチネンタルタッグ、そして自身が持つNWAインターナショナルライトタッグのベルトをかけ、ダブルタイトル戦に挑戦。相棒・日高郁人がKAMIKAZEを下し、ヘビー、タッグの2冠王となる。 :11月29日、東京ビッグサイトで行なわれた「国際ロボット展」において澤がROBO-ONE 優勝者のロボット「真グレートキングカイザー」に対戦表明。人類初の『ロボットvsプロレスラー』を実現させた。試合中、澤は司会者からロボットの製作費が数百万円というアナウンスに怯えるもドロップキックを炸裂させダウン奪取。しかしその後のシャイニング・ウィザードをよけられ、パンチ3連発を浴びてTKO負けを喫した。 ;2010年 :1月10日、DDT名古屋大会、今池ガスホール大会にてインフルエンザで欠場した高木三四郎のピンチヒッターとして登場。DDT vs CEO率いるベルトハンターハンター全面対抗5vs5勝ち抜き戦でヨシヒコとマサ高梨に対戦し勝利した澤は同時に第828代アイアンマンヘビー級メタル王者となる(数秒後にタノムサク鳥羽に奪われる)。 :1月17日、アメリカで旗揚げされた新団体『EVOLVE』に参戦。シングルマッチでTJPと闘いお卍固めで勝利。 :1月27日 ZERO1新宿Face大会におけるNWAインターコンチネンタルタッグ王座戦において相棒タッグは大谷晋二郎、曙のタッグチーム『華斬』の挑戦を受けたが大谷のスパイラルボムで澤が敗れ初防衛に失敗した。 :2月11日、DDT後楽園ホール大会において高木三四郎とのタッグ「変態大社長」でKUDO&ヤス・ウラノ組のKO-Dタッグ王座に挑戦。お卍固めでウラノからギブアップを奪い、第31代王者となる。このとき澤の「初防衛は路上でやりましょう」という発言〔このことは高木に事前の相談のないアドリブであったという。〕がきっかけとなり鉄工所、公園、廃屋や両国国技館全体など様々な場所で防衛戦を繰り広げた。 :3月、ドイツのプロレス団体wXwが毎年行なうトーナメント「16 CARAT GOLD 2010」に出場。1回戦ポール・トレイシーにお卍固めで勝利したものの続いて2回戦目のビッグ・ヴァン・ウォルターにはパワーボムで敗れ2回戦で敗退。急遽組まれたタイトル戦「wXwジュニア・チャンピオンシップ」でザック・セイバーJr.に挑戦したが 足とり腕十字固めで敗れている。 :6月、幼稚園教諭の資格を所持しているためバトラーツの仕事の合間に幼稚園教諭としても働いていた。また、その様子がサムライTVの『インディーのお仕事』で3週に渡り放送された。 :9月11日、アメリカ・ニュージャージーにおいて現・WWEのブライアン・ダニエルソンと澤のシングルマッチが『EVOLVE5』のメインイベントで行われた。日程がブライアンのWWE契約後であったため何回かながれかけたが9月11日に実現。 澤は試合前のプロモにおいて、新宿ゴールデン街の路上で山本裕次郎とバチバチ戦う映像をアメリカに送りつけた。試合はブライアンがバトラーツの世界に入り込み、壮絶な打撃戦の末、ラーベルロックで澤から勝利した。 ;2011年 :8月21日、バトラーツ北千住大会にて試合後に自身が所属するバトラーツが解散するのに伴い、引退することを発表。 :「僕がプロレスをやっている意義はバトラーツという会社を大きくすることでした。20代半ばから30代前半まで毎日をその時間につぎ込みました。結果的にクローズしてしまいますけど。僕はプロレスありきのバトラーツではなくバトラーツという自分が大好きな団体ありきのプロレスだったのでバトラーツが終わった後のことは、例えばどこか他の団体に入ったりだとかそういうことは全く自分でイメージがつきません。あと毎試合毎試合引退試合のつもりでやりすぎくらがちょうどいい闘いをと公言してきましたがやっぱりやりすぎたかなと。その辺を含めまして、バトラーツ11月5日新宿大会解散興行。これを絶対成功させてその数日後に僕も引退しようと思います。本当は11月5日バトラーツと一緒に引退しようかと思ったんですけどそうするとやっぱり11月5日のテーマが解散なので僕の引退も入るとちょっと焦点がぶれてしまうので。ジムを見送り、石川屋を見送り、吉川祐太を見送り、及川千尋を見送り、矢野啓太も退団して、みんな一人ひとり見送ってきました。最後に、格闘探偵団バトラーツという、僕の大好きだった団体を見送って、選手生命を終わろうと思います。」 :その後引退までの間国内外、プロアマ、果てには大学構内や花やしきという場所すらも問わず時間のある限り参戦する「やりすぎ」なスケジュールを送る一方で、バトラーツの解散興行に元メンバーを集めるために奔走、当日には不仲といわれていた元メンバーたちを集め解散に花を添えた。 :11月9日、バトラーツ解散から4日後のZERO1後楽園大会で、先輩である日高郁人と引退試合を行なった。団体が解散したため本来フリーということになるが本人の意向により格闘探偵団バトラーツの澤としてコールされた。 :試合は、日高の必殺技を何度も受け、最後も両手を広げ野良犬ハイキックを正面から受け止め10カウントを許しKO負けを喫した。 :試合後、10カウントゴングを終えると澤は足早に控え室に移動。そして「それでは歌って終わりましょう!」と この日参戦した選手やゆかりのある選手と共に「いい湯だな」の替え歌を歌った。 :♪ババンババンバンバン ババンババンバンバン :いいもんだ プロレスは さよならするのはつらいけど :決めたこと しかたがない やりすぎくらいがちょうどイイ♪ :「僕が引退しても全団体のレスラーが一所懸命戦います。これからもプロレスを応援よろしくお願いします!それではごきげんよう!また来週!」 :「来週はねぇよ!」と突っ込まれながら最後まで笑いの絶えない澤らしい引退セレモニーとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「澤宗紀」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Munenori Sawa 」があります。 スポンサード リンク
|