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ランジート・シング : ミニ英和和英辞書
ランジート・シング[らん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ランジート・シング : ウィキペディア日本語版
ランジート・シング[らん]

ランジート・シングパンジャービー語:ਰਣਜੀਤ ਸਿੰਘ, Ranjit Singh, 1780年12月3日 - 1839年6月27日)は、北インドパンジャーブ地方シク王国の君主(在位:1801年 - 1839年)。
彼は「パンジャーブの虎(Lion of Punjab)」と呼ばれ、パンジャーブ地方のシク教徒の勢力を結集したのち、19世紀初頭にシク王国を創始し、シク教徒の間に統一的な国家成立させた。また、その領土を北西インド一帯に広め、巧みな外交戦略でイギリスの植民地支配を寄せ付けなかった英雄である。
==生涯==

===シク王国の創始===

1780年12月3日、ランジート・シングはパンジャーブ地方グジュラーンワーラーに、に属する12のシクの群小諸国の一つスケルチャキア・ミスルSukerchakia Misl)の首長の息子として生まれた〔Lahore 3 〕。
1790年4月17日、首長である父の後をわずか10歳に満たずに継ぎ、スケルチャキア・ミスルを統治することとなった〔。とはいえ、彼は若年より才能をあらわし、強靭で勇敢な戦士であることを示すことに成功している。
当時、18世紀ムガル帝国は完全に衰退・崩壊し、パンジャーブ地方は完全にその支配を離れていた。帝国の支配がパンジャーブに及ばなくなったため、18世紀後半以降にアフガン勢力のドゥッラーニー朝がたびたび侵入し、1798年11月には主要都市ラホールが奪われ、聖地アムリトサルまで迫った〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.46〕。
そのため、1799年7月7日、ランジート・シングはラホールをアフガン勢力から奪回し、自身がシク勢力の指導者であることを知らしめた〔〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.46〕〔ターパル『インド史3』、p.69〕。
ドゥッラーニー朝のアフガン王ザマーン・シャー・ドゥッラーニーはシク教徒の指圧のためにパンジャーブにへと侵攻していたが、1799年に弟マフムードがカーブルに向けて進撃しているとの報を聞き、ランジート・シングを名目上の行政長官として残したうえで引き揚げた〔フォーヘルサング『世界歴史叢書 アフガニスタンの歴史と文化』、p.367〕。
1801年4月12日、若きシクの指導者ランジート・シングはパンジャーブの統治者として王位をラホールで宣し、シク王国を創始した〔。この王国はスケルチャキア・ミスルの名を取って、スケルチャキア朝とも呼ばれた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ランジート・シング」の詳細全文を読む




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