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ランダル・ジャレル : ミニ英和和英辞書
ランダル・ジャレル[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ランダル・ジャレル : ウィキペディア日本語版
ランダル・ジャレル[らん]

ランダル・ジャレル(Randall Jarrell1914年5月6日 - 1965年10月14日)は、アメリカ合衆国詩人文芸評論家童話作家小説家エッセイスト。第11代の議会図書館詩文顧問(Consultant in Poetry、現在の議会図書館桂冠詩人制度の前身)であった。
==経歴==
ジャレルは、テネシー州ナッシュビルで生まれ育ち、地元のヴァンダービルト大学を卒業した。ヴァンダービルト大学では、フュージティヴ派(Fugitives)〔文芸誌『''Fugitive'' (逃亡者)』(1922年-1925年)を発行していたことからこの名がある、南部の詩人や評論家などのグループ。〕の詩人たちと知り合いになった。ヴァンダービルト大学で教鞭を執っていた評論家ジョン・クロウ・ ランサム(John Crowe Ransom)がオハイオ州ガンビア(Bambier)のケニオン大学(Kenyon College)へ移ると、ジャレルはその後を追うようにケニオン大学に進み、アルフレッド・エドワード・ハウスマン(Alfred Edward Housman)について修士論文を執筆した。当時、ジャレルと同部屋だったのが詩人ロバート・ロウエル(Robert Lowell)で、ふたりはジャレルの死まで終生よき友人、同僚であり続けた。ロウエルの伝記を書いた詩人ポール・マリアーニ(Paul Mariani)によれば、当時まだ23歳ながら聡明さと自信に満ちていた「ジャレルは、(ロウエルが)同世代の人物に本物の畏敬の念をもった最初の相手であった」という〔Mariani, Paul. ''Lost Puritan: A Life of Robert Lowell''. New York: Norton, 1994.〕。
1938年、ヴァンダービルト大学から修士号を得たジャレルは、1939年から1942年までテキサス大学オースティン校で教鞭をとり、ここで最初の妻マッキー・ランガムと出会った。1942年には大学を辞めてアメリカ陸軍航空軍(アメリカ空軍の前身)に加わった。ジャレルの死亡記事によれば「航空士官候補生を振り出しに、天文航法塔〔天文航法塔とは、高さ12メートルほどのドーム内に爆撃機の操縦席が置かれ、そこから、プラネタリウムのように投影される星影を観測して現在位置を計算する訓練を行う施設。〕のオペレータ(Celestial Navigation Tower Operator)になったが、この肩書きは彼が空軍で一番詩的だと考えていたものだった」という〔"Randall Jarrell, Poet, Killed By Car in Carolina." ''The New York Times'' 15 October 1965. 〕。ジャレルの初期の詩は、陸軍航空軍における戦時下の経験を主題として取り上げることがしばしばあった。
ジャレルの死亡記事によれば、「軍から除隊後、ニューヨーク州ブロンクスヴィル(Bronxville, New York)のサラ・ローレンス大学教員となったが、一年後にはノースカロライナ州グリーンズボロのノースカロライナ大学女子カレッジ(Woman's College of the University of North Carolina)〔現在のノースカロライナ大学グリーンズボロ校( University of North Carolina at Greensboro)の前身。1892年に女子高等教育機関 State Normal and Industrial School として設立、改名を重ねて1932年に Woman's College of the University of North Carolin となった。その後、1963年に共学化され、現校名となった。〕に英語の準教授として赴任し、現代詩と創作を教えるようになった〔」とされている。
ジャレルは生前に、1947年から1948年にかけてのグッゲンハイム・フェローシップ(Guggenheim Fellowship)、1951年のアメリカ芸術院〔現在の American Academy of Arts and Letters の前身で、当時 National Institute of Arts and Letters と称していた組織。〕 の奨学資金、1961年全米図書賞(詩部門)など、数多くの賞を受賞した。
1965年10月14日、夕暮れ時にノースカロライナ州チャペルヒルの道を歩いていたジャレルは、自動車事故に遭い死亡した。検死官は事故死と判定したが、当時ジャレルが精神科の治療を受けており、以前に自殺未遂を一度していたことから、ジャレルの身近にいた人々の一部には、自殺だったのではないかという疑いが残った。ジャレルの死後1週間ほどして書かれた、エリザベス・ビショップ(Elizabeth Bishop)宛のロバート・ロウエルの書簡には、「(ジャレルの死が)事故だった可能性は小さい...僕は自殺だったと思っているし、彼のことを知っていた連中はみんなそう思っている」と記されていた〔Lowell, Robert. "To Elizabeth Bishop." 28 October 1965. Letter 464 in The Letters of Robert Lowell. Ed. Saskia Hamilton. New York: Farrar, Strauss, and Giroux, 2005. 465. 〕。しかし、1952年に結婚していたジャレルの2人目の妻メアリー(Mary)は、ジャレルは事故で死んだという立場を崩さなかった。
1966年2月28日イェール大学でジャレルの栄誉を讃える追悼ミサが行われた際には、ロバート・ロウエル、リチャード・ウィルバー(Richard Wilbur)、ジョン・ベリーマン(John Berryman)、スタンリー・クニッツロバート・ペン・ウィーレン(Robert Penn Warren)など有名な詩人たちが参列し、スピーチをした。この模様を報じた『ニューヨーク・タイムズ』紙はロウエルの言葉を引きながら、「『私たちの時代の最も胸を打つ詩人』...『第二次世界大戦について英語で書かれたものとしては最も優れた詩』を書いた」と記した〔Gilroy, Harry. "Poets Honor Memory of Jarrell at Yale." ''The New York Times'' 1 March 1966.〕。
2004年、ナッシュビル大都市圏歴史委員会(the Metropolitan Nashville Historical Commission)は、ジャレルの栄誉を顕彰する標識を、母校Hume-Fogg High Schoolに設置することを承認した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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