|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ラン : [らん] 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network) ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ランチア・ラリー(''Lancia Rally'' )は、アバルトが開発を担当し、ランチアのブランドでフィアットグループが1982年の世界ラリー選手権(WRC)に投入したラリーカーおよびグループB認証の為に150台前後生産したロードカーの一般呼称名。四輪駆動のラリーカーが時代の趨勢となる中で、ミッドシップエンジン・リヤドライブ(MR)方式では最後のタイトル獲得車となった。 == 概要 == 正式な車名は単に「ラリー」。FISAから日本でいうJAFにあたるイタリア自動車クラブに交付されたグループBの承認書には「Lancia Rally (151 AR0)」と記されている。ラリーに使用する車をラリーと呼称することは不都合な場合が多々あり、一般にはプロジェクトを指揮し、エンジン開発を担当したアバルトの開発コード「SE037」の037を取って037ラリー、ラリー037と呼ばれている(『80年代輸入車のすべて』三栄書房・67頁参照)。元々は「ランチア・アバルト・ラリー」になる予定だったが、「ラリーのランチア」復活をアピールしたかったためか「アバルト」の名前は消されてしまった。 型式名はZLA151ARO。流用のベースとなったベータ・モンテカルロ(ZLA137ASO)が元々フィアットの計画による低価格ミッドシップスポーツクーペのひとつ、X1/20であったため、この車種もランチアの800番台ではなくフィアットの100番台となっている(なお、ベータが828、ストラトスHFが829、ガンマが830、デルタが831である)。 シャーシの設計はジャンパオロ・ダラーラが担当した。生産もダラーラで行われている。センター部分のモノコックをベータ・モンテカルロから流用し、その前後にクローム・モリブデンの鋼管(チューブラー)を多用したトラス構造のスペースフレームを組み合わせている。 エンジンは元フェラーリのトップ・エンジニアだったアウレリオ・ランプレディが設計し、1960年代のデビュー以来フィアットの代表的なDOHCエンジンで、フィアット・124・アバルトラリーとフィアット・131・アバルトラリーを経て熟成が進められてきた通称ランプレディ・ユニットをベースにアバルトが開発した。ベータ・モンテカルロは同ユニットを横置きに搭載していたが、ランチア・ラリー037では運動性向上のために縦置きにレイアウトされ、さらに出力向上のために131で経験のあるアバルトが開発したルーツ式スーパーチャージャー(ヴォルメトリコ)が追加されている。過給エンジンはすでにグループ5レーシングカー、ストラトス・ターボやベータ・モンテカルロ・ターボで経験があったものの、高過給ターボエンジンの急激に立ち上がるトルク特性はラリーに向いていないとの判断から、ターボではなくスーパーチャージャーが選択された(なお、後継のラリーマシンとなるランチア・デルタS4では、同ユニットとターボチャージャーの組み合わせとしている)。当初は1,998cc+スーパーチャージャーでスタートし、最終的には2,111ccまで排気量を拡大している。ロードカーである“ストラダーレ”では205馬力、アバルトが仕立てたワークスカー“コンペティツィオーネ”では最高出力325馬力を誇った。 ボディデザインはピニンファリーナが担当し、ラリー目的に開発された車としては異例の流麗かつ端正なデザインを持っている。 日本では当時のインポーターであるガレーヂ伊太利屋によって、ラリーカーのベースとなったノーマルのストラダーレ・バージョンの037(ラリーカーに改造された分を含め、全部で200台作られたことになっている)がごく少数が輸入された。当時の車両本体価格は980万円だった。 世界ラリー選手権のデビューは1982年のツール・ド・コルス。すでにフルタイム四輪駆動とターボエンジンを装備したアウディ・クワトロが台頭してきていた。しかしランチア/アバルトは、当時フルタイム四輪駆動は未舗装路のためのものであるという雰囲気であったこと、開発期間の短縮、ストラトスで培った技術の応用、整備性の良さなどから、ミッドシップエンジン・リヤドライブ(MR)方式を採用した。当時ランチアには四輪駆動車を開発するだけの余力がなく、将来必要になる四輪駆動車のテクノロジーを手にするには時間がかかることから、「グループB1年目(1983年)は後輪駆動で参戦し、グラベルでは手堅くポイントを挙げつつターマックイベントでは必ず勝利し、上位を独占する」戦法で臨んだとされる。ストラトスの長所を生かしながら欠点を可能な限りつぶした(ホイールベースの延長、エンジン出力特性の最適化等)車作りもあってその目的は達せられたが、翌年からは開発の進んだ四輪駆動車の前に苦戦を強いられた。開発が進み速くなってゆくライバルに対して次期マシン(デルタS4)の開発は遅れ、結局1985年まで現役参戦したが、度々限界を超える領域に入ることもしばしばで、1985年にはコルシカでアッティーリオ・ベッテガの死亡事故を起こしてしまう。 延命のため、途中シャシーとボディの一部にカーボン・チタンなどを多用して軽量化を図り、20台造られた発展型のEvo2は排気量を2,111ccまで拡大し、大容量のスーパーチャージャーを使用して出力の向上を狙った。1985年のサンレモ・ラリーを最後にその座をランチア・デルタS4に譲り、その後はプライベーターの手によって主にヨーロッパのラリーシーンを中心に活躍している。日本でも、レギュレーションに合わせて仕様変更されたものが1994年度のJGTC第3戦にスポット参戦し、完走を果たした。 ラリーはその登場後、いくつかのミッドシップレイアウト・スポーツカーの開発に影響を与えた。1987年に発表・販売されたフェラーリF40にはその構造やセッティングに痕跡が見られ、1990年に発売されたホンダ・NSXの開発責任者であった上原繁は後のテレビ番組のインタビューの中で「NSXの開発で最も参考にし、また影響された車は(ターゲットであったフェラーリ・328ではなく)ランチア・ラリーであった」ことに言及している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ランチア・ラリー037」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|