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ラヴォ王国 : ミニ英和和英辞書
ラヴォ王国[らう゛ぉおうこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラヴ : [らヴ]
 【名詞】 1. love 2. (n) love
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王国 : [おうこく]
 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

ラヴォ王国 : ウィキペディア日本語版
ラヴォ王国[らう゛ぉおうこく]

ラヴォ王国チャオプラヤ川左岸の上流からドヴァーラヴァティー王国の領域まで達する、1388年まで存在した国である。(マンダラ論)ラヴォ王国の発祥地はラヴォ(現在のロプブリ)だが、首都は11世紀頃に南のアヨダヤに移り、近年の歴史分析によるとこれがアユタヤ王国になった。
==歴史==
ラヴォの伝説上の最初の王とされるプラヤ・カラヴァーナディトゥは、ドヴァーラヴァティー王国の都市国家群の1つとして450年頃にラヴォ市を建設したと言われている。〔http://library.tru.ac.th/il/lop/pepp/pep1.html〕カラヴァーナディトゥはチュラサカラジュと呼ばれる新しい時代を創り、その時代はシャム人ブルマ人によって19世紀まで続いた。真臘(ចេនឡា/チャンラ)(550年~706年)のイサナヴァーマン1世(~637年)は7世紀の遠征でクメールの影響力をチャオプラヤ谷まで広げた。〔http://www.napho.org/knowledge/thi/thi20.htm〕クメールの覇権に屈したドヴァーラヴァティー都市群はラヴォとなり、西の都市群はスワンナプーム王国を形成した。〔http://www.webcitation.org/query?url=http://www.geocities.com/nitinatsangsit/ancientkingdom.html&date=2009-10-25+23:43:23〕ラヴォはクメールがドヴァーラヴァティーを支配する中心だった。初期のラヴォの母語はモン語だけだと考えられている。しかし、ラヴォがモン族だけの国だったかには議論がある。それでも尚、ドヴァーラヴァティー時代初期にはマレー人クメール人の故郷でもあった。歴史家の中にはラヴォはモン族とラワ族の混合で、〔http://meruheritage.com/SiamKingdom.html〕〔http://www.globalsecurity.org/military/world/thailand/history-lavo.htm〕モン族が支配層だったと主張する者もいる。ラヴォ王国支配期にタイ族がチャオプラヤ谷に移住して来たという仮説もある。クメールからのヒンドゥー教や大乗仏教の影響は大きかったが、ラヴォでは上座部仏教が主要宗教であり続けた。〔http://blog.spu.ac.th/print.php?id=8508〕 7世紀後半、ラヴォは北に拡大した。モン族の王国であるハリプンチャイ王国の初代支配者のサーマデヴィーはラヴォの王の娘と言われている。ラヴォ王国の起源に関する資料は少なく、今分かっている情報の殆どは考古学的調査による。(618年~907年)の年代記はラヴォ王国が唐に「トウ・ホ・ロ」として朝貢したと記録がある。玄奘三蔵(602年~664年)の日記ではドヴァーラヴァティー・ラヴォを「トウ・ロ・ポ・チ」という名で、真臘とパガン王朝の間の国と述べている。(960年~1279年)ではラヴォは中国語で羅渦(ロ・ホウ)として知られていた。10世紀頃、ドヴァーラヴァティー都市王国郡は2つの曼荼羅、即ちラヴォ(現代のロプブリ)とスワンナプーム(現代のスファンブリ)に合併した。北方伝記によると903年にタンブラリンガの王はラヴォを侵略し、マレー人の王子をラヴォの王とした。マレー人王子はアンコール大虐殺を生き延びたクメール人王妃と結婚した。彼らの息子はクメール王のスリャヴァーマン1世となり、ラヴォはクメールと同じ王を抱く属国となった。スリャヴァーマン1世はイサーンに領土を拡大し、多くの寺院を建てた。11世紀にはブルマ系のパガン王朝の成長によってラヴォへのクメールの影響は弱まった。1087年にはパガン王国のチャンシッター王(1030年~1113年)がラヴォを侵略したが、ラヴォのナライ王はブルマ人を撃退し、クメールとブルマ人の覇権の間で存在感を増した。ナライ王は首都をアユタヤ市に移した。〔http://www.siamboran.net/mos/content/view/71/63 〕また、西のスワンナプーム王国に影響を及ぼし、徐々に都市を奪っていった。ジャヤーヴァルマン7世(1125年~1218年)の時代にもクメールによる侵略は続いた。この時期、ラヴォはクメール帝国に宗教的に同化され、ヒンドゥー教と大乗仏教が主流になった。クメールの影響はラヴォの芸術や建築にも及び、プラーンサムヨート寺院が代表的である。1239年、スコータイのタイ族支配者がラヴォからの独立を宣言し、スコータイ王朝が生まれた。タイの年代記ではラヴォは「クメール」と呼ばれ、13世紀にはラヴォはスコータイのラームカムヘーン王の拡大政策によって徐々に領土を減らし、中心地であるラヴォ市やアユタヤ市を奪われた。アヨダヤ王国第10代王(ナライ王を初代とした場合)のヴォラチェトゥ王は、アユタヤ王国のラーマーティボーディー1世(ウートーン)(1314年~1369年)と同一視されている。〔ラヴォのウートーンとアユタヤ王朝のパグワ王(~1388年)は共に新アユタヤ市を創り、ウートーンはその都市の王となった。しかしパグワ王はアユタヤ市をウートーンの息子のラーメースワン王(1339年~1395年)から1370年に奪い、ラーメースワン王は彼の故郷のラヴォに帰った。1388年にラーメースワン王はアユタヤ市をパグワ王の息子のトーンチャン王から奪い返した。パグワ王の甥のナガリンスラシラトゥ王は1424年にアユタヤ市をスワンナプーム王国に取り返した。ラヴォ王朝関係者は粛清され、16世紀まで一貴族として存続した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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