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ラ・グランハ・デ・サン・イルデフォンソ宮殿 (Palacio Real de La Granja de San Ildefonso)は、スペインセゴビア県のにあるバロック様式の宮殿。マドリード北方約80キロの場所にある。フェリペ5世によって建設された。 == 歴史 == グアダラーマ山脈の北丘陵前面に位置することから、この地は代々のカスティーリャ王たちに狩猟地として好まれてきた。15世紀、エンリケ4世は、この地に小さな教会堂を建て聖イルデフォンスス(スペイン語ではサン・イルデフォンソ)に奉納し、最初の狩猟用別荘を建てた。これが地名の由来である。女王イサベル1世は、この地に農場(granja)と救貧院を建て、2つをセゴビアの修道院に譲渡した。 1719年、この場所を僧侶から買い上げたのがフェリペ5世だった。バルサイン(Valsaín)近郊にあった夏の離宮が火事で焼失した後、替わりとなる場所を探していたのである。1721年初め、フェリペは祖父であるフランス王ルイ14世の建てたヴェルサイユ宮殿をまねて、新たな宮殿と庭園の建設を命じた。ヴェルサイユのように、建物近くにクール・ドヌール(三方を建物に囲まれた中庭)を取り込み、主軸を宮殿へ集中させた、きちんと整理された庭園を造った。ヴェルサイユ同様、ラ・グランハは、宮廷からの隠退所として建てられたのがのちに宮廷の中心そのものとなった。 フェリペは、スペイン人建築家テオドーロ・アルデマンスにより慎ましやかな計画で始めた。第2段階で拡張されたファサードに向け礼拝堂を加えた。この工事は1728年から1734年にかけ、アンドレア・プロカッチーニとセンプロニオ・スビサティにより行われた。トリノから招聘されたフィリッポ・ジュヴァッラは、宮殿工事に明確な特徴を与えた。彼は、フェリペの2度目の王妃エリザベッタ・ファルネーゼ周囲の推薦をバックに働いた(彼を招聘し強力な後ろ盾となっていたのは、フェリペの最初の王妃マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイアだった)。しかし、彼女の存命中から、フェリペのフランス嗜好が宮廷を支配するようになっていた。 1724年、フェリペ5世は退位して長男ルイス1世を即位させ、自身はラ・グランハへ引きこもった。しかし即位後1年もしないうちにルイス1世が病死したため、フェリペは王位に復帰した。次男フェルナンド(のちのフェルナンド6世)が幼いため、中継ぎのつもりであった。結果として、王が余生を過ごす静かな隠退所のはずだったラ・グランハは、臣下と宮廷が移り重要な政治中心地と化した。小さな町だったサン・イルデフォンソは、王の気に入りの王宮に近いところに住みたいという宮廷人らが集中し、人口と面積を拡大した。兵舎、大会堂が建てられた。 教会は、フェリペ5世のハプスブルク家の先祖たちとは別の、自身の墓所として選ばれた。教会のフレスコ画はジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロによるもので、フランシスコ・バイエウにより完成されたが、これらは1918年の火事で損傷した。 フェリペの次男フェルナンド6世は亡くなるとき、サン・イルデフォンソの王宮とそれに付随する物全てを義母エリザベッタ・ファルネーゼへ遺産として残した。彼女が1766年に亡くなると、エリザベッタの長男カルロス3世の手に渡った。 次の200年間、ラ・グランハは夏の離宮、王族の多くの冠婚葬祭、公式行事や公的行事の場となった。 最近、ラ・グランハは多くの王領や宮殿同様に、パトリモニオ・ナショナル(政府の文化財保護外局)の管理下となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラ・グランハ宮殿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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