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ア・コルーニャ()は、スペイン北西部の大西洋に面した港湾都市。ガリシア州ア・コルーニャ県の県都である。ガリシア統計局によれば、2013年の人口は245,923人(2012年:246,146人、2011年:246,028人、2010年:246,047人、2007年:244,388人)〔で、ビーゴに次ぐガリシア州第2の都市。自治体の正式名称はガリシア語で、「ア・コルーニャ」だが、定冠詞なしの「コルーニャ」や、スペイン語の名称「ラ・コルーニャ」も使われる。住民の呼称はcoruñés、coruñesa(コルニェス、コルニェサ)。 近隣の自治体アベゴンド、アルテイショ、ベルゴンド、カンブレ、カラル、クジェレード、オレイロス、サダとコマルカ(コマルカ・ダ・コルーニャ、県と市の中間単位)を構成。 ア・コルーニャは大西洋における重要な港で、この地域の農産物の集散地となっている。造船業や金属加工業など重工業の多くは近隣のフェロルにあるが、ア・コルーニャには石油精製所が建てられている。 近隣の自治体アルテイショには、日本にも出店し、近年成長著しいアパレル産業のザラ(ガリシア語およびスペイン語読みではサラ)を展開するインディテックスの本拠地がある。 ガリシア語話者の自治体住民に占める割合は15.84%(2011年)。 == 歴史 == この地には、先ローマ時代から人間が住んでいた。紀元前62年にカエサルが訪れたときは、ケルト系のアルタブロス族がア・コルーニャとフェロルの湾に居住していた。ローマ人はこの地を「ブリガンティウム」を名付け、港を建設した。重要な港であったため、灯台エルクレスの塔が建てられた。ローマ時代のものとしては現存する唯一の灯台で、現在も利用されている。 「コルーニャ」の名は、ローマ人のオッピドゥムだった「カロニウム」(語源は不明)を由来としている。12世紀のフェルナンド2世の時代には「クルニア」の名が最初に文献に現れる。 中世には一時的にイスラム教徒に占拠された。アルフォンソ9世がこの地に住人を移し、1188年に特権を与えたために、旧市街の人口が増え始めた。アルフォンソ10世が塩の荷揚げと販売を無税としたために町は発展した。フアン2世は1446年に町に「都市」の称号を与えた。カルロス1世は香辛料の通商院を設立し、この施設の防衛のためにサン・アントン城を建設した。 16世紀、ア・コルーニャはイギリスのエリザベス1世とスペインのフェリペ2世との対立に巻き込まれた。1588年、リスボンを出発した無敵艦隊はア・コルーニャ港に寄港してからイギリス海峡に出撃し、大敗した。翌年、エリザベス1世はフランシス・ドレークの部隊をア・コルーニャに派遣した。町はマリア・ピタ(es)を先頭に侵略に対抗し、イギリス軍は修道院を焼いたのちに撤退した。 17世紀から18世紀にかけては、スペイン王国の継続的な戦争のために増税と徴兵が行われ、ア・コルーニャは不景気にみまわれた。スペイン継承戦争後には、景気は回復し、カタルーニャ企業家による製造業や輸出がさかんになった。 ナポレオンのフランスによる支配に対するスペイン独立戦争では1808年5月にフランス軍に占領された。ア・コルーニャはガリシアで唯一占領に抵抗した都市となった。1809年1月16日に英仏軍の間に起きたコルーニャの戦い(es)の結果イギリス軍は撤退したが、フランス軍も5月にガリシアを放棄した。戦後の1815年、フアン・ディアス・ポルリエル元帥が1812年憲法(カディス憲法)の復活を目指して反乱を起こしたが失敗した。 20世紀には人口と経済が拡大し、現在の市の面積の70%を占めるオサ地区(Oza)を編入。さまざまな産業が生まれ、港が強化され、近代的なビルが建設された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ア・コルーニャ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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