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「ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル、時計製造業の都市計画」は、ユネスコの世界遺産リスト登録物件のひとつである。スイスのヌーシャテル州に残る伝統的な時計製造業と結びついた都市計画が評価された産業遺産であり、ラ・ショー=ド=フォンの町並みはスイスの国定重要文化財 (bien culturel suisse d'importance nationale) に指定されている〔 Source : Inventaire suisse des biens culturels d'importance nationale et régionale, édition de 1995.〕。 == ラ・ショー=ド=フォン == === 歴史 === ラ・ショー=ド=フォンのコミューンの成立は1656年のことである。1780年以降、その経済は、時計製造業、レース製造業、金属細工などのおかげで発達したが、1794年の火災で、町の建造物群は焼失した。のちに中心市街となる区画の再建には、啓蒙時代の申し子といえる都市計画が採用された。これは彫刻親方モワズ・ペレ=ジャンティ (Moise Perret-Gentil) によって主導されたもので、公益と私益の間で合意された成果であった。 1834年にシャルル=アンリ・ジュノ (Charles-Henri Junod) による新しい都市計画が採用された。それを実地で適用するに当たっては、火災の延焼を防ぐために安全性や衛生面が考慮されたことはもちろん、園芸や除雪のためのスペースを空けることや、全ての人に良い日当たりを保障することも考慮された〔Urbanisme horloger ''Site de la candidature de la ville au patrimoine mondial'', consulté le 20 juillet 2008.〕,〔 Page 5 consultée le 20 juillet 2008.〕。そして再建が実行され、都市の碁盤目状の区画に従い、谷の北の斜面が1835年から1841年にかけて発達した。 1848年以降、ラ・ショー=ド=フォンはヌーシャテル州の経済の中心地となった。社会生活と文化生活は増進し、都市のインフラストラクチャーは、博物館、劇場、図書館などとともに発展した。19世紀末には、ドイツ系スイス人 (suisses alémaniques) 、ドイツ人、フランス人、イタリア人などの移民が多くなだれ込んだ。 また、アルザス出身のユダヤ人たちは、都市経済と文化の面で重要な役割を担った。1896年に建造されたシナゴーグは、スイスで最大級の規模を誇っている。 20世紀初頭のラ・ショー=ド=フォンは、アール・ヌーヴォーの中心地でもあり、ル・コルビュジエ生誕の地でもある。そこでは、今でも彼の初期の作品を見ることができる。 1905年以降、この地方特有のアール・ヌーヴォーの一様式である「スティル・サパン」(le style sapin, サパンは「モミ」の意味)が発達した。それは、ラ・ショー=ド=フォン美術学校 (l'École d'art de La Chaux-de-Fonds) で、シャルル・レプラトニエ (Charles L'Eplattenier) が主導する形で生まれたもので、その装飾の様式は、ジュラ山脈の動物相や植物相に触発されている。その様式は、時計製造業、建築、日用品などに広く適用できる可能性を持っていた〔 Page 4, consultée le 20 juillet 2008.〕。 人口面で見ると、1715年には702人だった人口は、1800年には4927人となり、1850年には12638人、1910年には37751人と順調に増加していった〔Office fédéral de la statistique〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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