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ラ・ド・サンの海戦 : ミニ英和和英辞書
ラ・ド・サンの海戦[ら ど さんのかいせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

ラ・ド・サンの海戦 : ウィキペディア日本語版
ラ・ド・サンの海戦[ら ど さんのかいせん]

ラ・ド・サンの海戦(ラ・ド・サンのかいせん、Battle of the Raz de Sein)は、フランス革命戦争中の1798年4月21日に、ブレスト封鎖中のイギリス海軍戦列艦と、フランス海軍との間で行われた海戦である。4月12日に、から初代ブリッドポート男爵アレグザンダー・フッドの封鎖艦隊がやって来て、21日の朝、イロワーズ海を横断している時に、東方向に配置された複数の艦を見つけ、これらの艦を追跡させるために、ブリッドポート卿の甥にあたる艦長の74門の戦列艦「マーズ」が率いる3隻の艦が派遣された。獲物に近寄ったイギリス艦は、3隻目の艦が、南東を岸すれすれにブレストへ北上するのが見えた。(以下、ブリッドポート卿はブリッドポート、アレグザンダー・フッドはフッドと表記する)
この艦は74門の「」で、艦長はだった。レリティエはロリアンで新しく任務に就くため、フランス主力艦隊に合流するためブレストに向かっており、イギリスの戦隊はこの新たな標的の阻止のために方向転換した。圧倒的な数の差に直面したレリティエは、狭いを通り抜けて逃げようとしたが、潮の流れが逆流になっていたため、ラ・ド・サンの入口に投錨してイギリスの攻撃を待った。21時15分、「マーズ」が「エルキュール」に追いつき、エルキュールは猛烈な砲火を浴びた。それは、フッドが戦略的にこの位置に入ったためで、「マーズ」は「エルキュール」の艫側に大きく衝突した。それから1時間以上、両者は互いに直接砲火を浴びせたが、あまりにその距離が接近していたため、大砲は砲身を伸ばすことができず、艦の奥から発砲せざるを得なかった。損害と死傷者は双方かなりのもので、交戦の真っ最中にフッドも致命傷を負った。
最終的に、「エルキュール」は「マーズ」に乗り込む計画が失敗し、降伏を余儀なくされた。両艦とも打ちのめされ、艦体が砲火で焼けていて、フランス側の死傷者は290人、イギリス側は90人だった。戦闘直後に「エルキュール」はイギリスへ運ばれ、のちに修理されて1810年までイギリス海軍で就役した。レリティエと、亡くなったフッドとは戦闘中の指揮をイギリスで高く称賛された。ほぼ同じ強さの艦1隻ずつだけで外部からの干渉を受けず戦った海戦は、この時代非常にまれな例であると指摘される。
==歴史的背景==

フランス革命戦争の間、イギリス海軍はヨーロッパ大陸の敵国のうち、自国に最も隣接したフランスのビスケー湾沿岸のブルターニュ沿岸で、フランス海軍の主力艦隊であるブレスト艦隊に対して優位に立っていた。イギリスはこの艦隊を封じ込めるため、海上封鎖戦術を使い、ブレスト沖に艦隊を待機させて、いくら天候がよくなっても、封鎖を破って大西洋に出ることができないようにしたのである〔Woodman, p. 100〕。この封鎖はフランスの通商と海上通信をも制限した。主力艦隊に補給や増員を行う商船や単独行動の軍艦を攻撃したからだった。この封鎖により、海岸近くであってさえも、海上交通はかなり危険を伴うものとなって行った。1795年6月、グロワ島の海戦でフランス主力艦隊は、ロリアン港の進入路で封鎖艦隊から敗北を喫し〔Clowes, p. 261〕、1797年1月13日の海戦では、74門の戦列艦「」が、他の艦から離れて航行していて、封鎖艦隊の2隻のフリゲート艦に追われて座礁し、ブレストへの進入路で破壊された〔Woodman, p. 89〕。
1798年4月12日、ブリッドポート指揮下のイギリスの封鎖艦隊は、冬の停泊地のワイト島セントヘレンズから、ブルターニュ沿岸へと航行していた。ブリッドポートはブレスト監視維持のために10隻の戦列艦を召集したが、この艦隊が派遣した艦は1月25日からこの海域を航行しており、ブリッドポートは通知を出して28隻の戦列艦の支援要請を行った〔。この戦争の初期で、フランス艦隊は一連の敗北を味わってきた。グロワでの敗戦に加え、1795年栄光の6月1日では7隻の艦を失い、同じ1795年の軍事作戦である、と、翌年のアイルランド遠征ではそれ以上の艦が難破した〔Clowes, p. 553〕 。こういった敗北の埋め合わせのためにも、フランス海軍は多くの艦隊基地で新艦を建造し、1798年4月に、ロリアンで1隻の艦が就役した。この艦が1876載貨重量トンの74門艦「エルキュール」で、1797年7月に進水式が行われ、熟練のルイ・レリティエ艦長や、栄光の6月1日の軍人たちに指揮されて、680人の乗員を乗せていた。これは定員に20人満たない数字だった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラ・ド・サンの海戦」の詳細全文を読む




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