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「ラ・ムスメ」()は、フィンセント・ファン・ゴッホにより1888年7月に描かれた肖像画。油彩画 (F431, JH1519)。同時期に描かれた素描3点も残されている。 「ムスメ」(娘)とは、ゴッホがピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語である。この絵のモデルはアルルの少女であるが、ゴッホが異国である日本の少女のイメージを投影してこの絵のことを手紙の中で「ムスメ」と呼んだことから、一般にも「ラ・ムスメ」(「ラ」はフランス語の冠詞)と呼ばれている。 == 油彩画 == === ゴッホによる記述 === ゴッホは、1888年2月、弟テオと同居していたパリから南仏のアルルに移り、以後、「郵便夫ジョゼフ・ルーラン」、「ズアーブ兵」などの肖像画を含め、後世に残る名作を数々制作していた。「ラ・ムスメ」はその年の7月末に制作されたことを、から知ることができる。おそらく7月18日から25日までの1週間に描かれたものである〔ピックヴァンス (1986: 146)。〕。 1888年7月29日、ゴッホは、友人の画家ベルナールに宛てた手紙の中で、次のように説明している。 同じ日にテオに宛てた手紙には、次のように書いている。 妹ヴィルにも次のように説明している。 ゴッホが読んだロティの『お菊さん』には、「ムスメ」という単語について次のとおり説明がある(原文フランス語)。 ゴッホは、7月31日付けのテオ宛書簡で、友人のマックナイトがゴッホのところに来て、「若い少女の肖像」を良いと言っていたと書いている〔 フィンセントよりテオ宛書簡652 (1888年7月31日、アルル、1958年版書簡集516、)。〕。 ゴッホは、まだ油絵具が完全に乾いていない「ラ・ムスメ」を、パリのテオに送ることにした。8月13日頃の手紙で、ゴッホは、アルルからパリに向かう予定のミリエ少尉(ズアーブ兵の友人)に習作36枚を託し、テオのところへ持って行ってもらうつもりだと書いている。そのうちの1枚が、「ムスメ」の油絵であったと考えられる〔フィンセントよりテオ宛書簡660 (1888年8月13日頃、アルル、1958年版書簡集524、)、同注1。〕。 9月3日の手紙では、テオに、「僕から送った習作は、また完全に乾いていないから、できる限り空気にさらしてほしい。仕舞い込まれたり暗いところに置かれたりすると、色が悪くなってしまうかもしれない。だから、若い少女の肖像、収穫(背景に廃墟があってアルピーユ山脈がある広い風景画)、海の小景、枝の垂れた木と針葉樹の茂みのある庭園の絵は、画架にかけておいてくれると良い。僕はこれらの作品に少し愛着を持っている。」と依頼している〔フィンセントよりテオ宛書簡673 (1888年9月3日、アルル、1958年版書簡集531、)。〕。 カミーユ・ピサロが9月6日にテオに会いに来た時、テオは「ラ・ムスメ」をピサロに見せている。ゴッホは「ピサロがあの若い少女に何物かを見いだしてくれたことはとても嬉しい。」と書いている〔フィンセントよりテオ宛書簡676 (1888年9月8日、アルル、1958年版書簡集533、)、同注10。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラ・ムスメ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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