|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
管弦楽のための舞踏詩『ラ・ヴァルス』( )は、モーリス・ラヴェルが1919年12月から1920年3月にかけて作曲した管弦楽曲、もしくは作曲者自身によるピアノ2台用やピアノ独奏用の編曲作品。タイトルの「ラ・ヴァルス」とは、フランス語でワルツのことであり、19世紀末のウィンナ・ワルツへの礼賛として着想された。ラヴェルの親友であったピアニスト、ミシア・セール(Misia Sert、1872年 - 1950年)に献呈されている。 == 作曲の経緯 == オーケストラのためにワルツを作曲するという発想は、『スペイン狂詩曲』よりも古くからあり〔『自伝素描』による(『作曲家別名曲解説ライブラリー11・ラヴェル』音楽之友社、1993年、9ページ)。〕、事実、ラヴェルは1906年2月の批評家マルノルド(Jean Marnold)への手紙に、ヨハン・シュトラウス2世へのオマージュとして交響詩風のウィンナワルツを書くという構想を披露している。 その後、1914年頃には、交響詩『ウィーン』という題名が浮上していたが、おそらく第一次世界大戦のため〔『最新名曲解説全集(6)・管弦楽III』音楽之友社、1980年〕、未完に終わった。この間に作曲された1912年の作品『高雅で感傷的なワルツ』は「オーケストラによるワルツ」を実現しているものの、これは元来シューベルトに倣った連作ワルツの体裁のピアノ曲として1911年に完成されたものを、バレエ『アデライード、または花言葉』のために管絃楽曲に編曲したという経過を辿ったものである。 ラヴェルは第一次世界大戦中に健康を害し、1917年1月には母の死というショックに見舞われる。このため、同年に完成された『クープランの墓』を除けば3年間にわたって実質的な新作が生まれなかった。ラヴェルが再び創作に取り組むのは『ラ・ヴァルス』に本格的に着手してからである〔『作曲家別名曲解説ライブラリー11・ラヴェル』音楽之友社、1993年、9ページ〕。 バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のダンサーであったセルジュ・リファールによれば、1917年、バレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフはラヴェルを訪問して新しいバレエ音楽の作曲を依頼し、ラヴェルはこれを了承したとされる。しかし、曲はただちには完成せず、『ラ・ヴァルス』の作曲は1919年から1920年にかけて行われた。 ラヴェルは完成した舞踊詩『ラ・ヴァルス』の2台ピアノ版を、ディアギレフのパトロンであったミシア・セールの邸宅において、マルセル・メイエールとともに演奏してディアギレフに聴かせた。その場にはバレエ・リュスの振付家・ダンサーのレオニード・マシーンや作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー、フランシス・プーランクが居合わせた。プーランクの証言によれば、演奏を聴き終わったディアギレフは、『ラ・ヴァルス』が傑作であることは認めつつも、バレエには不向きな「バレエの肖像画、バレエの絵」であるとして、受け取りを拒否し〔ステファヌ・オーデル編『プーランクは語る 音楽家と詩人たち』筑摩書房、1994年、169-171ページ〕、これ以来、ラヴェルとディアギレフは不仲となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラ・ヴァルス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|