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ラーコーツィ・フェレンツ2世(II. Rákóczi Ferenc, 1676年3月27日 - 1735年4月8日)は、ハンガリーの大貴族で、反ハプスブルク独立戦争の指導者。ハンガリー王国等族連盟の統治首長(fejedelem、在位:1705年 - 1711年)、独立国家トランシルヴァニア公国の君主を務めた。ハンガリー王国では最も富裕な領主であり、1694年以後はシャーロシュ伯爵の称号を帯びた。金羊毛騎士団の騎士でもあった。現在、ハンガリーの国民的英雄とされている。 == 生涯 == === 幼少期 === 1676年、トランシルヴァニア公の称号を持つラーコーツィ・フェレンツ1世と、クロアチア太守ペータル・ズリンスキの娘で、勇将ニコラ・ズリンスキの姪にあたるズリーニ・イロナ(イェレナ)との間に3番目の子供として生まれた。ラーコーツィ家は父のみならず、高祖父ラーコーツィ・ジグモンドを始め曾祖父のラーコーツィ・ジェルジ1世、祖父のラーコーツィ・ジェルジ2世もトランシルヴァニア公に選ばれた名門の家柄だった。しかし、祖父は失政からオスマン帝国の介入を招き戦死、父は公位を継げなかった上、1670年のハプスブルク家に対するヴェッシェレーニ陰謀に関与したため立場は良くなかった。 兄のジェルジは生まれてすぐに亡くなっており、次男のフェレンツが家長を引き継ぐことになっていた。他の兄弟姉妹に4歳年上の姉のユリアナ(hu)がいた。 生後4ヵ月の時に父が急死、母イロナはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世に代わる2人の子供の新しい後見人を探し始めた。しかし、皇帝の顧問官は、フェレンツ1世が生前の遺言で皇帝にフェレンツ2世と姉ユリアナを託したため、後見人は皇帝が引き続いて務めると主張した。母と皇帝との後見をめぐる対立はますます深くなっていたが、皇帝が後見人のまま、イロナは子供を養育することを認められた。 一家はラーコーツィの祖母バートリ・ジョーフィア(hu)が亡くなる1680年まで、ムンカーチ城(現在のウクライナ領ムカーチェヴェ)、シャーロシュパタク、レジェツで暮らし、ラーコーツィは幼い日々を過ごしたムンカーチに生涯強い愛着を抱いていた。幼年期を過ぎて母の傍を離れると、一家の家老役を務めるケーレシ・ジェルジとバディニ・ヤーノシュが傅育係を任された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラーコーツィ・フェレンツ2世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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