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ラーズ・アンダーソン(Lars Anderson)のリングネームで知られるラリー・ハイニエミ(Larry Heinemi、本名:Lawrence George Heiniemi、1939年3月14日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミネソタ州ミネアポリス出身〔『THE WRESTLER BEST 1000』P271(1996年、日本スポーツ出版社)〕。 1960年代から1980年代にかけて一世を風靡したタッグチーム・ユニット、ミネソタ・レッキング・クルー(The Minnesota Wrecking Crew)のオリジナル・メンバーとして知られる。 == 来歴 == ミネソタ州立大学時代はAAU3連覇を果たすなどレスリングの選手として活躍〔。その後バーン・ガニアにスカウトされ〔、1965年8月に地元ミネアポリスのAWAにて、ラリー・ハイニエミの名義でデビュー。ベビーフェイスのポジションで活動し、AWAの新人賞も獲得した〔。 1966年、ジン・アンダーソンのパートナーとなってヒールに転向し、ラーズ・アンダーソンと改名。実際には血縁関係はないものの、ジンの「弟」と称してミネソタ・レッキング・クルーを結成、NWAジョージア地区にてエンリケ&ラモンのトーレス兄弟と抗争し、1967年4月にはジョージア版のNWA世界タッグ王座を奪取した。 1960年代末からは新メンバーのオレイ・アンダーソンを後任にしてユニットを離れ、職人肌のタッグ・プレイヤーとして世界各地を転戦。1969年10月にはオーストラリアにてディック・マードックとのコンビでIWA世界タッグ王座を獲得している。1970年9月には日本プロレスに初来日、アマチュア時代からの旧友ボブ・ループと組んで『第1回NWAタッグ・リーグ戦』に出場した。1971年は古巣のAWAにて、ハーリー・レイスに代わるラリー・ヘニングの新パートナーも務めている。 1973年4月にはAWAルートでマッドドッグ・バションやイワン・コロフと共に国際プロレスに来日。4月27日には宮城県スポーツセンターにてラッシャー木村と、5月14日には船橋ヘルスセンターにてストロング小林と、それぞれ金網デスマッチで対戦した。国際プロレスには同年9月の『第5回IWAワールド・シリーズ』にも参戦し、予選リーグにてストロング小林から勝利を収めベスト4の決勝トーナメントに進出。準決勝でグレート草津と対戦するも両者KOで失格となった(決勝はラッシャー木村とブラックジャック・マリガンで争われ、マリガンを破った木村が優勝)。9月27日には愛知県体育館にて、ラッシャー木村との金網デスマッチの再戦も行われている〔。 以降もAWAを主戦場に、AWA世界ヘビー級王者バーン・ガニアをはじめ、クラッシャー・リソワスキー、ビル・ロビンソン、ワフー・マクダニエル、レッド・バスチェン、クリス・テイラー、ケン・パテラ、イワン・プトスキー、ジェフ・ポーツ、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼルらと対戦。タッグではバディ・ウォルフと組んで活動した。1975年にはアメリカ北東部の新団体IWAにも出場、ミル・マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座に挑戦している。 1970年代後半はNWAの南部テリトリーを転戦し、1977年はフロリダ地区にてジャック・ブリスコやダスティ・ローデスと抗争を展開。9月20日にタンパ、12月15日にジャクソンビルと、2度に渡りローデスからフロリダ・ヘビー級王座を奪取するなど、シングル・プレイヤーとしての実績も残している。1978年からはジョージア地区に戻り、ミネソタ・レッキング・クルーに再加入。オレイ・アンダーソンとのコンビで同年2月27日にミスター・レスリング2号&トニー・アトラス、4月28日にサンダーボルト・パターソン&トミー・リッチ、1980年6月8日にイワン・コロフ&アレックス・スミルノフを破り、ジョージア・タッグ王座を3回獲得した。オレイとは仲間割れを起こし、会場の照明を落として試合を行うライツ・アウト・マッチやボクシング・マッチなどのデスマッチ形式で分裂抗争を繰り広げたこともある。このときはベビーフェイスのポジションに回り、テリー・ファンクとも抗争を展開した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラーズ・アンダーソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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