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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
リアーヌ・ド・プジー (Liane de Pougy, 1869年7月2日 - 1950年12月26日)は、フォリー・ベルジェールのダンサーで、パリで最も美しく最も名うての高級娼婦の一人である。小説『失われた時を求めて』の登場人物、「オデット」のモデルの一人と思われる(? Laure Hayman と勘違いか?)。 本名はアンヌ・マリー・シャッセーニュ(Anne Marie Chassaigne)といい、サルト県ラ・フレーシュで生まれた。女子修道院で育てられた。16歳で海軍士官のアルマン・プールプ(Armand Pourpe)と駆落ちし、結婚したが、これは彼女が妊娠したからである。 赤子はマルコ・プールプ(Marc Pourpe)と命名されたし、回想録では彼女自身は「恐ろしい母親」であったという。「息子は少女に与えられた生きた人形のようであった」。彼女は「ドレスと巻毛のために」赤子は女の子のほうを望んだであろう。(マルコは成長して第1次世界大戦の志願航空兵となり、1914年12月2日、ヴィレール=ブルトヌー(Villers-Brettoneux)付近で戦死した。) 幸福な結婚ではなかった。アンヌ・マリーはのちに回想録によれば、新しい夫は新婚初夜に乱暴で、そのことは彼女に感情的な傷跡を残した。言われているところによれば、花婿は獣のような人で、彼女を虐待した--彼女の片方の乳房にはその後死ぬまで打擲の傷跡が残った。アルマン・プールプがマルセイユの宿舎に行ったとき、彼女は恋人シャルル・ド・マクマオン侯爵(Marquis de Charles de MacMahon)ができた。二人がベッドにいっしょにいるのを見つけたとき、彼はリヴォルヴァーで彼女を撃ち、彼女の手首を傷つけた。夫と離れる決心をしてアンヌ・マリーは紫檀のピアノを、即金で400フラン支払う若者に売った。1時間もしないうちに彼女は、幼い息子を父に残してパリに行く途中であった。今度は父が息子をスエズに居る男児の祖父母と暮らすために遣った。 結婚の失敗とともに彼女はおもしろ半分に女優業と売春に手を出したし、今や、彼女はコカインと阿片の両方の多用者であったことが知られる。 彼女は高級娼婦としての経歴をヴァルテス・ド・ラ・ビーニュ伯爵夫人(the Countess Valtesse de la Bigne)とともに始めたが、公爵夫人はアンヌ・マリーに職業を教え、公爵夫人の記念となるベッドは光沢のある青銅製であった。自分自身を虚栄心が強いが愚か者ではないと言って、アンヌ・マリーは、絵画や書物、詩に対する興味を養ったが、知的深みは避けた。彼女はそれを退屈だと見なしたからである。彼女はウィリアム・シェークスピアやリヒャルト・ワーグナーよりはカフェ演奏会や流行歌を選び、パリのフォリー・ベルジェールで、サンクトペテルブルクで、ローマやフランスのリヴィエラのキャバレー・クラブで、合唱に小さく出演した。彼女は良心的な帳簿係であった。 彼女はパリへ移ったのち、有名な高級娼婦となり、フォリー・ベルジェールにおいてラ・ベル・オテロのライヴァルと目されるほどの地位に上がった。彼女は情夫の一人であるド・プジー伯爵(Comte de Pougy)(もしくは子爵(Vicomte))という人の姓をとって名乗るようになった。女優サラ・ベルナールは、リアーヌに演技をつける務めに直面すると、舞台上では「その可愛らしい口を」閉じておくのが最高であると助言した。リアーヌは、作家ナタリー・クリフォード・バーネイと同性愛の関係にあり、1901年に出版された小説『Idylle Saphique』に記録されている。1899年、バーネイはパリのダンスホールでプジーを見たのち、小姓の衣裳でプジーの住まいに現われ、自分はサッポーに遣わされた「愛の小姓」であると伝えた。ド・プジーは当時フランスで最も有名な女性で、肩書きのある裕福な人々にいつも探し求められていたけれども、バーネイの不敵さは彼女を魅了し誘惑した。二人はその後死ぬまで互いに深い愛情を抱き続けたと言われた。 1920年、リアーヌはグルジアのプリンスであるジョルジェ・ギカ(Georges Ghika)と結婚し、プリンセス・ギカとなった。この結婚は別居に終ったが、離婚ではなかった。第一次世界大戦で、息子の航空機操縦士としての死亡は、彼女を宗教の方向に向け、彼女は修道女アンヌ・マリーとしてドミニコ会第三会会員になった。 彼女はサンタニェス養護所に関わり、先天的欠損症を持つ子供たちの世話をした。リアーヌはスイスのローザンヌで亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リアーヌ・ド・プジー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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