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リウドルフィング家(, )は、中世ドイツにおいてドイツ王および神聖ローマ皇帝を務めたザクセン出身の諸侯の家系である。「オットー家」(Ottonen)、あるいは、ドイツ王を世襲した家系としてザクセン朝と呼ばれる(同じザクセン朝と呼ばれたズップリンブルク家とは直接関係はない)。 ==概要== 同家の始祖であるリウドルフ(? - 866年)は、カール大帝のザクセン侵攻で降伏したザクセン人首領ウィドゥキントの孫にあたるといわれるが、東フランク王ルートヴィヒ2世により王国東部辺境の防衛を委託され、844年ザクセン公とされた。リウドルフの後を継いだブルンは、880年にノルマン人との戦いで戦死したと伝えられている。ザクセン最大の勢力を持つ貴族として、王家との姻戚関係を背景に次第に領土を拡大し、9世紀末には、ハルツ北辺の地を本拠に独立した勢力を築きあげた。ブルンの弟であとを継いだオットー貴顕公は国王アルヌルフの側近として国政にも関与し、カロリング朝断絶後にコンラディン家のコンラート1世と東フランク王の後継者の座を争ったが、コンラート1世に敗れている。オットーの後を継いだハインリヒ1世は、国王コンラート1世とは距離を置き、対スラヴ人、対ノルマン人の防衛を独力で行っている。 国王コンラート1世には継嗣がなく、 918年、死の床でコンラート1世は、弟のフランケン公エーバーハルト3世に対して、王国の分裂を防ぐために有力諸侯ハインリヒ1世をドイツ王の後継者とするよう遺言し、919年5月ハインリヒ1世はフリッツラーにおいて国王に選出された。以降、リウドルフィング家がザクセン朝としてドイツ王および神聖ローマ皇帝を世襲、1024年にハインリヒ2世が没するまで続いた。 オットー1世は、947年にルイトポルト家のバイエルン大公ベルトルトが死去した際、同家の男性相続権者をすべて排除し、弟のハインリヒの妃が大公アルヌルフの娘ユーディトであることを奇貨としてハインリヒにバイエルン大公の地位を与えた。以降、ハインリヒの孫の皇帝ハインリヒ2世が妃の弟ハインリヒ5世に授与するまで、バイエルン大公位は同家が保持した。また、シュヴァーベン大公位についても、949年にコンラディン家の大公ヘルマン1世が死去した際、ヘルマン1世の一人娘イーダの夫であった長子リウドルフに与えている。一方、同家がもともと保持していたザクセン大公位は、ザクセンの統治を委託していたビルング家に授けられている。 1024年7月13日、皇帝ハインリヒ2世が嗣子なく没し、同家は断絶した。オットー1世の娘リウトガルトの曾孫にあたるザーリアー家(シュパイアーガウ伯家)のコンラート2世がドイツ王として即位し、ザーリアー朝を開いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リウドルフィング家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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