|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
リカルド・アンドラーデ・クアレスマ・ベルナルド(Ricardo Andrade Quaresma Bernardo, 1983年9月26日 - )は、ポルトガル・リスボン出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダーで主に左右のウイングとしてプレーしている。 優れたウイングプレーヤーを輩出するスポルティングCPのアカデミーの出身(先輩にルイス・フィーゴ、後輩にクリスティアーノ・ロナウド、ナニ)であり、切れのあるドリブル突破が持ち味のウインガーである。 ポルトガルでの発音はクァレズマかクァレジュマに近い。 == 経歴 == スポルティングCPのアカデミーの練習生を経て2000-01シーズンにBチームでデビューし15試合に出場。翌2001-02シーズンにはトップチームのメンバー入りを果たし、FCポルト戦でリーグデビューを飾ると中心選手として活躍(リーグで28試合出場3ゴール)、今シーズンのリーグとカップのダブル優勝に貢献。続く2002-03シーズンも31試合に出場し5ゴールで一躍脚光を浴び、シーズンオフにリーガ・エスパニョーラの名門・FCバルセロナに引き抜かれた。 2003-04シーズン、ACミランとのフレンドリーマッチでデビュー、1得点を挙げる上々のスタートを切り、序盤戦は4-2-3-1システムの右ウイングとして先発を任されたが、若さを露呈し満足のいくプレーは出来なかった。シーズン後半には4-3-3へシステムを変更し純粋なウイングではなくよりフォワード的な選手(ロナウジーニョとルイス・ガルシア)が起用される様になると先発出場の機会が激減した。フランク・ライカールト監督と起用法をめぐって対立し、シーズンオフにはデコとのトレードでFCポルトに移籍する事になった。リーグ戦では22試合に出場(内先発は11試合)し1ゴール。また、シーズン最終週で足の甲を骨折し、噂されていたUEFA EURO 2004とU-21欧州選手権の両方に欠場することを余儀なくされた。 2004-05シーズンは32試合に出場し5得点(リーグ戦2位)、翌2005-2006年シーズンは29試合出場5ゴール。2005-2006年シーズンにはドリブルだけではなくクロスから多くの好機を演出しリーグのアシスト王となり、リーグとカップの二冠に大きく貢献した。活躍が代表監督・ルイス・フェリペ・スコラーリの目に止まり、2006 FIFAワールドカップの予選で招集を受け試合にも出場するものの、本大会のメンバー入りはならなかった。 2006-07シーズンにはリーグ2連覇を達成。自身も26試合に出場し6得点を記録し年間最優秀選手を受賞。技術的にも精神的にも成長を見せ、代表も継続的に呼ばれるようになり、左右のウイングとして先発出場も増えた。シーズンオフにはリーガ・エスパニョーラのアトレティコ・マドリードや、プレミアリーグのリヴァプールFCといったビッグクラブへの移籍も噂されたが残留し、リーグ3連覇とチャンピオンズ・リーグでの躍進を目指す事となった。 2008年8月に移籍期限ぎりぎりでイタリアの強豪インテルに1860万ユーロ(約29億3000万円)という高額な移籍金、加えてペレのトレードという事で加入した。「ビッググラブでプレーしたい」という本人の希望に加え、インテル監督に就任したモウリーニョが強く求めていた選手の1人であったが、2008年度はポルト時代ほどの活躍は見せておらず、初めてのセリエAに大苦戦。そのため、ラジオ局のリスナーが選ぶイタリア年間最悪選手賞である「金のバケツ賞」を受賞、その後はチャンピオンズリーグの登録メンバーからも外れる等、イタリアでの挑戦は散々な結果となってしまった。 2009年2月冬の移籍市場で期限ギリギリでチェルシーFCにレンタル移籍するが、出場は数試合に止まり活躍は見られなかった。シーズン終了後にジェノアに放出されそうになるが本人が拒否し、インテルに復帰した。復帰後は引退したフィーゴが付けていた背番号「7」を引き継いだ。だがチームは三冠を達成したもののわずか3試合の出場に終わり、シーズン終了後にトルコのベシクタシュJKへ移籍金730万ユーロの3年契約で移籍した。 2012年12月19日、ベシクタシュとの契約を解除し、2013年1月にUAEリーグのアル・アハリに加入した。 2013年5月にアル・アハリ退団、その後は無所属の状態が続いていたが、2014年1月1日、5年半ぶりにポルトに復帰した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リカルド・クアレスマ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|