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リダ・バーロヴァ : ミニ英和和英辞書
リダ・バーロヴァ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リダ・バーロヴァ : ウィキペディア日本語版
リダ・バーロヴァ[ちょうおん]

リダ・バーロヴァ(Lída Baarová、本名:ルドミラ・バブコヴァ、Ludmila Babková)(1914年9月7日 - 2000年10月27日)は、チェコ人女優チェコスロヴァキアドイツで多数の映画に出演し一世を風靡した。ナチ・ドイツ宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスとの恋愛関係がドイツを揺るがすスキャンダルに発展した。
== 略歴 ==
母親も女優。プラハ音楽院で演技を学び、17歳で映画デビュー。ドイツの映画スタジオに見出され、ベルリンに移る。ドイツ映画界で成功をおさめ、一躍人気女優となる。ハリウッドへも招かれたが断る〔http://www.imdb.com/name/nm0044673/bio〕。
しばしば共演した俳優のグスタフ・フレーリッヒと恋愛関係となり、ベルリン郊外の家で同棲する。1935年1月、撮影所見学に訪れたアドルフ・ヒトラーヨーゼフ・ゲッベルスから首相官邸に招待され、それ以来ゲッベルスと顔見知りとなる。1936年からはゲッベルスの愛人となり、フレーリッヒとの婚約を解消する。さまざまな女性たちと関係を持つ猟色家のゲッベルスであったが、バーローヴァとの恋愛は真剣そのものであった。
ゲッベルスの妻マクダ・ゲッベルスが夫とバーロヴァの関係に気づき、ヒトラーに相談する。ゲッベルスの子供たちの名付け親だったヒトラーは、ゲッベルスに対してバーロヴァと別れるようにと告げる。しかしゲッベルスは妻と離婚してバーロヴァと再婚し、そのためには宣伝大臣をも辞職してバーロヴァと共に国外に出る(駐日本大使となって東京に行くことを希望した)、との決意を述べた。夫に裏切られていたマクダ・ゲッベルスも、夫の部下であった宣伝省次席次官カール・ハンケと恋愛関係におちいり、ゲッベルスと離婚してハンケと再々婚する希望を持っていた。しかし、子沢山で「ナチ体制の理想的家族」の典型として宣伝されていたゲッベルス夫妻が離婚することは体制に大きなダメージを与えるとヒトラーは考え、絶対にゲッベルス夫妻の離婚は認めないとの命令をくだす。こうしたヒトラーの決意の前に、ゲッベルスもやむなくバーロヴァに別れを告げることになった。
この事件によってゲッベルスがヒトラーの不興を買ったため、ゲッベルスのライバルたちはこれを利用して彼の勢力を削減しようとはかった。特に執拗だったのは親衛隊全国指導者であったハインリヒ・ヒムラーであり、ヒムラー配下の親衛隊員はバーロヴァが出演している映画の上映館に出かけていき、さまざまな嫌がらせをやって上映中止に追い込んでいった。バーロヴァは映画会社との契約を破棄されてしまい、生まれ故郷のチェコのプラハに戻ることを余儀なくされた。
時を経て、この事件のほとぼりも冷めたと考えたベルリンの映画プロデューサーのひとりがバーローヴァに映画界カムバックの誘いをかけた。しかしこの情報を聞いたマクダ・ゲッベルスは激怒し、元の恋人であったハンケに依頼してプロデューサーを脅迫し、バーローヴァの復帰を阻止した。バーローヴァは1942年にイタリアに移住し、主にコメディメロドラマに出演するが、1943年にイタリア北部がドイツ軍に占領されたため、またプラハに戻った。
ナチ・ドイツの崩壊が目前に迫っていた戦争最末期、ゲッベルスの秘書のひとりは、ゲッベルスが食い入るように1枚の写真に見入っていることに気づいた。我に返ったゲッベルスはその写真に写っている人物を指さして「どうだ、美しい女性だろう!」と言った。それは、リダ・バーローヴァの写真であった。しばらくの沈黙の後、ゲッベルスは秘書にその写真を渡して「燃やしてしまってくれ」と命じ、背を向けた。
戦後、バーローヴァはチェコスロバキア政府により対独協力者として一時拘束される。その際同様に拘束されていた男性と釈放後オーストリアに逃れ、結婚する。オーストリアで映画界に復帰するものの、ナチス時代にイギリスに亡命していた大スターであるアントン・ウォルブルックによって共演を拒絶されたという象徴的な出来事に示されるように、反応は辛辣であったため、夫とともにアルゼンチンに移住するが、貧困のため夫とは離婚し、イタリアに行くことを決意する。イタリアではフェデリコ・フェリーニ監督作品の青春群像 - ''I Vitelloni'' (1953年)に出演し、1955年からはスペインへ移り住んだ。1957年からはオーストリア西ドイツで演劇活動を再開する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リダ・バーロヴァ」の詳細全文を読む




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