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リチャード・G・ヴォージ : ミニ英和和英辞書
リチャード・G・ヴォージ[りちゃーどじーう゛ぉーじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リチャード・G・ヴォージ : ウィキペディア日本語版
リチャード・G・ヴォージ[りちゃーどじーう゛ぉーじ]

“ディック”リチャード・ジョージ・ヴォージRichard George "Dick" Voge, 1904年5月4日-1948年)〔"Voge" の日本語読みは、翻訳者によって「ヴォーグ(ボーグ)」とも表記される(#ディングマンp.62)。本稿での表記は#ホルムズに準拠した(#ホルムズでは「ボージ」)。〕は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は少将。主に潜水艦畑を歩み、太平洋戦争劈頭のフィリピンの戦いで早々に乗艦を失った。戦争後半は潜水部隊のスタッフに転じ、「裏方」として戦争を勝利に導く手助けをした。
== 生涯 ==
“ディック”ことリチャード・ジョージ・ヴォージは、1904年5月4日にイリノイ州シカゴで生まれた。シカゴのハリソン技術高校を経て海軍兵学校(アナポリス)に進み、1925年6月に卒業。この世代は、卒業年次から「アナポリス1925年組」と呼称された。卒業後は装甲巡洋艦ピッツバーグ (''USS Pittsburgh, ACR-4'') に少尉候補生として配属され、1929年までの3年間乗艦する。乗艦中の1927年には国共内戦を経験。ピッツバーグがヨーロッパおよび極東の配備から帰国したあと、ヴォージはコネチカット州ニューロンドンの潜水学校に進み、受講後は海軍生活のほとんどの期間を潜水艦とともに過ごすこととなった。
1931年1月から1932年6月まではS-29 (''USS S-29, SS-134'') の艦長を務め、1932年7月から1933年9月の間はで訓練教官、1933年9月から1935年6月まではアナポリスで船舶工学の教官を務めた。その後は (''USS S-18, SS-123'') および (''USS S-33, SS-138'') の艦長、ロングアイランドのにある海軍軍需品工場勤務を経て、1939年9月から1940年1月の間は駆逐艦 (''USS Rowan, DD-405'') の艦長を務めた。
1940年2月、中佐に昇進したヴォージはに配属されるシーライオン (''USS Sealion, SS-195'') の艦長に就任し、マニラに向かう。以後、マニラを拠点として行動し、1941年12月8日の開戦を迎える。フィリピンに対する日本の攻撃は、まず空から行われた。12月10日、第十一航空艦隊塚原二四三中将)指揮下の第一航空隊に属する九六式陸攻27機がとマニラ港を爆撃した。当時、オーバーホール中のシーライオンは桟橋寄りのシードラゴン (''USS Seadragon, SS-194'') 、外側の掃海艇 (''USS Bittern, AM-36'') にはさまれて係留されていた。空襲時、シーライオンではヴォージと当直見張りが艦橋で上空を哨戒していたが、空襲が始まるとヴォージと見張りは艦内に退避した。直後、シーライオンは2発の直撃弾を受ける。司令塔後方と機関室後方に被弾し、乗組員4名が戦死した。また、破片でシードラゴンの将校1名も戦死した。シーライオンは後方に着底しつつ右に傾き、修理を行う状況ではなかったため放棄と処分が決まり、かくしてシーライオンは、第二次世界大戦で喪失した最初のアメリカ潜水艦となった。開戦2日目にして事実上乗艦を失ったヴォージであるが、すぐさま代艦として同型のセイルフィッシュ (''USS Sailfish, SS-192'') があてがわれた。12月17日以降、ヴォージはセイルフィッシュの艦長として4回の哨戒を行い、攻め寄せてくる日本軍との対決に追われた。5月の珊瑚海海戦と6月のミッドウェー海戦で痛恨の打撃を日本に与えるまで、潜水艦は日本に痛打を与えるほぼ唯一の存在であり、太平洋での戦いの行く末に明るい展望を与えた。ヴォージの艦長としての軍歴は、セイルフィッシュが1942年8月1日にフリーマントルに帰投して終わりを告げた〔#SS-192, USS SAILFISHp.89〕。艦長としての具体的な戦果としては、1942年3月2日に特設航空機運搬艦加茂川丸(東洋海運、6,440トン)を撃沈し〔#Roscoe p.549〕、7月9日に陸軍輸送船青葉山丸(三井物産、8,811トン)を撃破した〔#野間p.469〕。
1942年8月、ヴォージは太平洋艦隊潜水部隊の作戦兼情報担当参謀に就任する。1942年4月以降アメリカ海軍潜水部隊は大きく3つに分けられ、その時点で真珠湾の部隊はロバート・H・イングリッシュ少将(アナポリス1911年組〔:en:Robert Henry English〕)が指揮し、アジア艦隊潜水部隊の流れを汲む部隊のうちフリーマントルの部隊はチャールズ・A・ロックウッド少将(アナポリス1912年組)、ブリスベンの部隊は少将(アナポリス1915年組〔:en:Ralph Waldo Christie〕)がそれぞれ率いていた〔#秋山p.80〕。このうちクリスティは、頻発していた魚雷の問題に対処させるため本国に呼び戻され、ヴォージが参謀に就任した時点では少将(アナポリス1918年組〔:en:James Fife, Jr.〕)が司令官となっていた〔#秋山pp.80-81〕。一方、海軍情報局を筆頭とする情報機関は日本やドイツの暗号解読に全力をあげた。太平洋関連で言えば、1942年7月に太平洋地域情報センターが設置され、傍受された諜報はセンター内の様々な部課を経て太平洋艦隊に届けられた〔#ホルムズpp.125-126〕。ヴォージの役割はイングリッシュの幕僚として諜報担当者とじかに接触し、得られた情報を行動中の潜水艦に伝達すること、また、潜水艦からの情報を諜報担当者に伝達することであった〔#ホルムズpp.140-141〕。1943年に入って早々にイングリッシュが航空事故で殉職してロックウッドが後任となったが〔#谷光p.520〕、任務は変わらなかった。
一見大言壮語のようにも聞こえるが、ヴォージはロックウッドとともに中部太平洋方面で行動する潜水艦の行動を事実上差配していた。対潜機雷の敷設に関する情報を入手すれば、安全な抜け穴が見つかるまで当該海域での行動を控えさせ〔#ホルムズp.170,188〕、重要艦船がトラック諸島などの根拠地に出入りするという情報をつかめば、至近の潜水艦に迎撃するよう指示を出した〔#ホルムズp.148〕。1943年以降、「マル・コード」と呼称された日本海軍の商船関連の暗号書である「海軍暗号書S」の解読に成功すると、ヴォージは「マル・コード」と日本商船から傍受された緊急電報を大いに活用して潜水艦の配置を決定し、味方の通商破壊戦に利益をもたらした〔#ホルムズpp.140-143〕。また、ヴォージは指揮下の潜水艦が空母を撃沈することにこだわりを見せ、1943年12月に、かつて艦長を務めたセイルフィッシュが空母冲鷹を含む日本艦隊を迎撃できる位置にいることを知ると、セイルフィッシュに迎撃を命じた上で「空母を撃沈できる」と吹聴してまわり、この見解に疑念を示していた太平洋艦隊情報参謀のウィルフレッド・J・ホルムズ少佐〔#Blair p.88〕との間で1ドルを賭けることとなった〔#ホルムズp.176〕。セイルフィッシュは1943年12月14日に冲鷹を撃沈し、賭けに負けたホルムズ少佐は「セイルフィッシュのために」と書き添えた1ドルの小切手をヴォージに贈呈したが、ヴォージはその小切手を換金せず額縁に収めて飾り物とした〔#ホルムズpp.176-177〕。ヴォージとホルムズ少佐ら諜報担当者との接触は、1945年1月24日に潜水部隊司令部のグアム前進とともに終わりを告げた〔#ホルムズp.213〕。これに先立つ1943年7月20日には大佐に昇進して、ワシントンD.C.海軍作戦部の情報参謀を兼ねる。1945年6月の日本海におけるバーニー作戦の立案も、ロックウッドとともに行った〔#Blair p.857〕。
終戦後の1946年11月1日、ヴォージは少将に名誉進級して退役した。著述家が書いた "United States Submarine Operetions in World War II" に文を寄せたり手直しを行ったほか、運用と管理の面から見た太平洋戦争におけるアメリカ潜水艦の戦いに関する書物を執筆する意思があったが、2年後の1948年にニューヨーク州ポート・チェスターので心臓発作により死去した〔#Blair pp.880-881〕〔#ディングマンp.144,150〕。死去の月日は不明で、43歳か44歳で没と言われている。
ガーシア級フリゲートの一艦である (''USS Voge, FF-1047'') は、ヴォージの名を記念して命名された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リチャード・G・ヴォージ」の詳細全文を読む




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