|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
リチャード・オーウェン(, 1804年7月20日 – 1892年12月18日)は、イギリスの生物学者・比較解剖学者・古生物学者。王立協会フェロー。 その比較解剖学の深い知識によりキュヴィエの後継者と目され(師弟関係はない)、「イギリスのキュヴィエ」とも呼ばれた。科学史においては「恐竜」という語の創設と、ダーウィン進化論への熱烈な反論で知られる。英国科学界の頂点であったことから王室との個人的なつながりもあったが、妻と息子には先立たれ学界でも孤立し、公私ともに孤独な晩年であった。一般的に、有能で科学への寄与も大きいが、人間性は高く評価されることが少ない。1842年に騎士の称号を一度辞退しているが、1884年の退官時にあらためてバス二等勲爵士として騎士に列せられた。 == 前半生と経歴 == オーウェンはランカスターに生まれ、ランカスター・ロイヤル・グラマー・スクールで学んだ。1820年、彼は地元の外科医と薬剤師の徒弟となり、1824年にはエディンバラ大学に進み医学生となった。翌年も大学に残り、聖バーソロミュー病院で医学課程を修了した。そこで彼は高名な外科医ジョン・アバネシーの影響を受けた。 当初オーウェンは通常の専門課程に進もうと考えていた。だが、彼の適性は明らかに解剖学の研究に向いており、アバネシーの勧めで王立外科医師会のハンテリアン博物館館長ウィリアム・クリフトの助手の地位についた。この職はオーウェンの性分に合っていたため、彼は医学の道を断念し、これ以降の人生を純粋な科学的研究に没頭させることとなったのである。 オーウェンは王立外科医師会にある貴重なハンテリアン・コレクション〔ハンテリアン・コレクション 解剖学者であり外科医でもあった王立協会会員ジョン・ハンター (1728–1793) によって収集された、比較解剖学・病理学・骨学・博物学関係の一大コレクション。1799年に政府が購入して王立外科医師会に収蔵した。グラスゴー大学に保存されているウィリアム・ハンター(ジョン・ハンターの実兄)による書籍・写本コレクションもハンテリアン・コレクションと呼ばれるが、別物である。〕の目録制作を準備し、この仕事を進める中で彼は比較解剖学に関する比類無き知識を身につけた。その知識は彼が様々な分野で造詣を深める事を可能とし、とりわけ絶滅動物の遺骸の研究において役立つこととなった。1830年ロンドンを訪れていたキュヴィエに出会い、その後パリに遊学して比較解剖学の知識をさらに堅固にしている。 1836年に王立外科医師会のハンテリアン教授に任命され、1849年にはクリフトの跡を継いで博物館の館長になった。そのころ、オーウェンはクリフトの娘と結婚している。彼は1856年に大英博物館自然史部長になるまでその職務を務めていた。その後、自然史関係専門の国立博物館を作るという壮大な計画にその精力の大部分を注ぎ込み、その結果として大英博物館の自然史関係標本はサウスケンジントンの新しい建物に移され、大英博物館自然史分館(現在のロンドン自然史博物館)となったのである。彼はこの仕事が完成しバス二等勲章を殊勲した1884年に職を離れ、その後ヴィクトリア女王に与えられたリッチモンドパークのシーン・ロッジで静かな隠退生活に入り、亡くなるまでそこで過ごした。 彼の後半生の経歴には、他者の研究の功績をその人物に帰すことを怠ったり、あまつさえその功績が自分のものであるかのように偽ろうとしたとして数多くの告発がなされた、という汚点がつきまとっている。1844年には、彼のベレムナイトに関する論文の題材が、明らかに既にチャニング・ピアースによって数年前に地質協会に報告されていた標本であったにも関わらず、その標本に関する功績の全てが自分にあると主張し、事態は緊迫したものになった。結果として、彼は投票により王立協会と動物学協会の委員会から追放されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リチャード・オーウェン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Richard Owen 」があります。 スポンサード リンク
|