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リチャード・ヘイマン : ミニ英和和英辞書
リチャード・ヘイマン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リチャード・ヘイマン : ウィキペディア日本語版
リチャード・ヘイマン[ちょうおん]

リチャード・ヘイマンRichard Hayman, 1920年3月27日 - 2014年2月5日)はアメリカ合衆国アレンジャー作曲家ハーモニカ奏者、指揮者音楽ディレクターである。アーサー・フィードラー時代のボストン・ポップス・オーケストラで、30年以上にわたってチーフ・アレンジャーを務めた。
== 経歴 ==
マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。18歳のときにボラ・ミネヴィッチとハーモニカ・ラスカルズ (Borrah Minevitch and His Harmonica Rascals) のハーモニカ奏者として音楽業界に入る。やがてハリウッドに出入りするなかでメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの音楽ディレクターの目にとまり、『ガール・クレイジー (Girl Crazy) 』(1943年)、『若草の頃』(1944年)などの映画音楽オーケストレーションを任されるようになった。このハリウッド時代にマックス・スタイナーアルフレッド・ニューマンエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトら映画音楽の巨匠達の薫陶を受けている。
1945-50年まで当時人気を誇ったヴォーン・モンロー・オーケストラ (Vaughn Monroe Orchestra) のレコーディングに参加、1950-65年にはマーキュリー・レコードA&R・ディレクターとしてヴィック・ダモーンパティ・ペイジのレコーディングに携わる傍ら自らもポップス・オーケストラを指揮して同レーベルから数々のアルバムを発表した。1960年にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を授かる。またこの時期からボストン・ポップス・オーケストラにチーフ・アレンジャーとして招かれるようになり、アーサー・フィードラーの下で数々の名編曲を生み出した。これらの編曲は、ボストン・ポップスのシェフがジョン・ウィリアムズキース・ロックハートの代になっても使われ続けている。
ポップス指揮者としても活躍し、セントルイス交響楽団の名誉ポップス指揮者、グランドラピッズ交響楽団ハートフォード交響楽団及びカルガリー・フィルハーモニー管弦楽団の首席ポップス指揮者のポストを持つ。セントルイス響では2010年に彼の90歳を祝うコンサートが開催された。また1960年-68年までデトロイト交響楽団の首席ポップス指揮者を務め、ボストン・ポップスでは指揮者としてもフィードラーを補佐した。
彼自身のヒット曲に、1950年代に大ヒットした「ルビー」(映画『Ruby Gentry』のテーマ曲の編曲で、彼がハーモニカ・ソロを担当)や「ダンセロ(Dansero)」がある。レコーディングでは、1950年-60年代にマーキュリーから、80-90年代にはナクソスから、リチャード・ヘイマン&ヒズ・オーケストラ (Richard Hayman and His Orchestra) 名義で多くのアルバムを発表している。
2014年2月5日、マンハッタンで死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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