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リチャード・モントゴメリー(、1738年12月2日 - 1775年12月31日)は、アイルランド生まれの軍人で、まずはイギリス陸軍に仕えた。アメリカ独立戦争の時に大陸軍の准将となり、1775年に失敗に終わったカナダ侵攻作戦を率いたことで知られている。 モントゴメリーはアイルランドに生まれ育った。1754年、ダブリンのトリニティ・カレッジに入学し、その2年後にはイギリス軍に入隊してフレンチ・インディアン戦争に参戦した。北アメリカで、続いてカリブ海で勤務し、順調に階級を上げた。フレンチ・インディアン戦争が終わった後のポンティアック戦争ではデトロイト砦に駐屯し、その後健康上の理由でイギリスに帰国した。1773年、モントゴメリーはアメリカに戻り、ジャネット・リビングストンと結婚して、農場経営を始めた。 アメリカ独立戦争が始まると、アメリカ独立支持側に付き、1775年5月にはニューヨーク植民地会議の代議員に選出された。1775年6月、大陸軍の准将に任官された。フィリップ・スカイラー将軍の病気が重くなってカナダ侵攻を率いられなくなったときに、モントゴメリーがその指揮を引き継いだ。同年11月にはセントジョンズ砦とモントリオール市を占領し、その後ケベック市まで進軍して、ベネディクト・アーノルド率いる別働隊と合流した。12月31日、ケベック市への攻撃を指揮したが(ケベックの戦い)、戦闘中に戦死した。イギリス軍がその遺骸を見つけて軍葬の礼に付した。遺骸は1818年にニューヨーク市に移葬された。 == 初期の経歴 == モントゴメリーは、アイルランドのダブリン州(現在のフィンガル州)ソーヅで、元イギリス軍士官でアイルランド議会代議員であったトマス・モントゴメリー(1700年-1761年)〔Gabriel p.17〕とメアリー・フランクリン・モントゴメリー夫妻の息子として生まれた。兄にはアレクサンダー・モントゴメリー大佐(1720年-1800年)、従兄にはアレクサンダー・モントゴメリー大佐(1686年-1729年)がおり、どちらもドニゴール州の代表として代議員を務めた。別の従兄でやはりアレクサンダー・モントゴメリー将軍(1721年-1785年)はモナハン州の代表として代議員を務めた。 モントゴメリーは子供時代の大半をドニゴールで過ごし、狩猟、乗馬、射撃およびフェンシングを習った〔。父のトマスがモントゴメリーに十分な教育を受けるように仕向けたので、フランス語、ラテン語および修辞学を学び、ベルファスト郊外の学校に通った〔Gabriel p.18〕。北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が始まった1754年に、モントゴメリーはダブリンのトリニティ・カレッジに入学した。 モントゴメリーは知識を大いに愛したが、学位は受けなかった〔Gabriel p.19〕。父や兄のアレクサンダーから促されて、1756年9月21日にイギリス陸軍に入隊した〔Shelton p.16〕。父が少尉の任官を買い与え、第17歩兵連隊勤務となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リチャード・モントゴメリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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