翻訳と辞書
Words near each other
・ リッキー・ギブソン
・ リッキー・グリーン
・ リッキー・サンチェス
・ リッキー・シックス
・ リッキー・シュローダー
・ リッキー・ジェイ
・ リッキー・ジャーヴェィス
・ リッキー・ジャーヴェイス
・ リッキー・スター
・ リッキー・スチームボート
リッキー・スティムボート
・ リッキー・スティムボート・ジュニア
・ リッキー・デイビス
・ リッキー・ネルソン
・ リッキー・ノラスコ
・ リッキー・ハットン
・ リッキー・ハーバート
・ リッキー・バレット
・ リッキー・バンデラス
・ リッキー・バーンズ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

リッキー・スティムボート : ミニ英和和英辞書
リッキー・スティムボート[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リッキー・スティムボート : ウィキペディア日本語版
リッキー・スティムボート[ちょうおん]

リッキー・スティムボートRicky "The Dragon" Steamboat、本名:Richard Henry Blood1953年2月28日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーニューヨーク州ウェストポイント生まれ、フロリダ州タンパ出身。
父親がポーランド系英国人、母親が日本人(京都出身タカコ・イトウ)という血統。ニックネームはブルース・リーのイメージから「ザ・ドラゴン」。日本では「南海の黒豹」のキャッチコピーが付けられ全日本プロレスで活躍し、人気を獲得した。
ギミックの設定上、公式プロフィールでの出身地はハワイ州ホノルル全日本プロレス中継では「母国日本」と紹介されたこともある)。
息子はリッキー・スティムボート・ジュニア
== 来歴 ==
少年時代を過ごしたフロリダではレスリングで活躍。バーン・ガニアのレスリング・キャンプに参加後、1976年AWAでプロデビュー。ハワイ出身の名レスラー、サム・スティムボートの「甥」という設定のもとリッキー・スティムボートと改名し、デビュー後ほどなくしてフロリダやジョージアを経て、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に移籍。端正な顔立ちと鍛え上げられた肉体を持つアイドル系のベビーフェイスとして、生涯のライバルとなるリック・フレアージミー・スヌーカらと抗争を繰り広げた。同じアイドル系のジェイ・ヤングブラッドとのコンビでも活躍し、レイ・スティーブンス&グレッグ・バレンタインなどのチームを破り同地区認定のNWA世界タッグ王座を再三に渡って獲得した。
1980年11月に初来日し、ディック・スレーターと組んで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。開幕戦でアブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタと熱戦を演じた。以降も全日本の常連外国人として活躍し、ミル・マスカラスジャンボ鶴田らとの好試合を通して日本でも人気を得る。入場テーマ曲にはYMOの『ライディーン』が使われていた。1982年にはヤングブラッドとのコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場、ブルーザー・ブロディ&スタン・ハンセンミラクルパワーコンビとの初戦では、その体格差から圧倒的不利が囁かれながらも互角以上の戦いで名勝負を演じ、後年まで語り草となった。また、1984年にはデビッド・フォン・エリック急逝により空位となったUNヘビー級王者決定戦にエントリーされ、天龍源一郎と王座を争った。
1985年WWFに移籍。ザ・ドラゴンのニックネームを与えられ、ジェイク・ロバーツドン・ムラコランディ・サベージらと抗争を展開する。1987年3月29日、レッスルマニアIIIでランディ・サベージを下し、WWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得。この試合はプロレス史に残る名勝負として名高い。スティムボートの大ファンだったクリス・ジェリコはこの時の試合を見てプロレスラーを志すようになったと語っている。
1988年春にWWFを脱退後、「家族と過ごす時間が欲しい」との理由から一旦引退が発表されたが、翌1989年1月21日にフレアーと対戦するためにWCWで現役復帰。同年2月20日、シカゴでフレアーを破り第73代NWA世界ヘビー級王者となる。世界王者として全日本プロレスへも来日を果たし、2代目タイガーマスク(三沢光晴)相手に防衛戦を行い勝利している(全日本での最後のNWA戦となった)。同年5月7日、前王者に敗れて王座転落。このフレアーとのタイトルマッチ3連戦(第2戦は4月2日に行われスティムボートの王座防衛)も、いずれも名勝負としてプロレス史に刻まれている。王座陥落後は、1990年9月に新日本プロレスに初参戦。横浜アリーナグレート・ムタと対戦している。ちなみにこのときの入場テーマ曲にはYMOの『東風(Tong Poo)』が使われていた。
1991年3月、WWFに再登場。ニックネームのドラゴンそのままのコスチュームで火吹きパフォーマンスを行ったが、観客の反応は今一つだった(かつてのライバルの1人リック・ルードは「元NWA世界王者にあんな真似をさせるなんて」と当時のWWFを非難していた)。同年11月からは再びWCWに参戦、主にニキタ・コロフシェーン・ダグラスとのタッグで活動する。しかし1994年"スタニング"スティーブ・オースチンとの抗争中に腰を負傷。この怪我が原因となり、同年に現役を引退した。
引退後は自宅のあるノースカロライナ州シャーロットでジムを経営していたが、2002年から裏方としてプロレス界に復帰。TNAROHを経て2005年からWWERAWチーム)のロード・エージェントとして活動している。日本興行に同行した際には、リング上で往年のチョップ攻撃を披露することもある。
2008年4月、フレアーの引退セレモニーに登場。2009年にはWWE殿堂に迎えられ、プレゼンターはフレアーが務めた。殿堂入りが発表された後のRAWでクリス・ジェリコの襲撃を受け、フレアー、スヌーカ、ロディ・パイパーらレジェンドと共にジェリコとの抗争を開始。レッスルマニア25ではスヌーカ、パイパー(セコンドにフレアー)と組み、ジェリコと1対3のエリミネーション・マッチで久々に試合に登場。試合には敗れたものの、コーナーポストからのチョップやクロス・ボディを放つなど、56歳とは思えぬ現役時代さながらのファイトを見せた。翌日のRAWでもスペシャル10人タッグマッチでRAWのメンバーとして登場した。なお、レッスルマニア25でタッグを組んだスヌーカ、パイパー、そしてスティムボートの3人は共にレッスルマニア第1回大会の出場者でもあり、25回記念大会に花を添えた。
日本にも、2009年7月7日8日の "SMACKDOWN&ECW LIVE" 日本武道館大会に登場し、8日には「レッスルマニア・リマッチ」としてジェリコと対戦。前日特別レフェリーを務めたジェリコvsレイ・ミステリオ戦後にジェリコに暴行された因縁もあり、序盤は猛ラッシュを見せたが、スタミナに勝るジェリコにギブアップ負けを喫した。しかし、ジェリコのウォールズ・オブ・ジェリコを一度は耐え、レッスルマニアでも見せた年齢を感じさせない空中技やロープワークを見せた。
また、後進の指導の一環でハウス・ショーではテストマッチとして若手相手に試合を行なっている(ドリュー・マッキンタイアは長くテストマッチを受けていた)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リッキー・スティムボート」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.