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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
"ラヴィシング" リック・ルード("Ravishing" Rick Rude、本名:Richard Erwin Rood、1958年12月7日 - 1999年4月20日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州ロビンズデール出身。 マッスルボディと腰をクネらせるパフォーマンスで知られる。「腰クネ」パフォーマンスは、一時期馳浩も好んで真似していた。また、対戦相手の情けない姿が描かれたロングタイツ(自身の似顔絵は端正に描かれている)もトレードマークだった。 == 来歴 == ニキタ・コロフらと同じくロビンズデール・ハイスクールの出身であり、ミネアポリスの酒場でロード・ウォリアーズやバリー・ダーソウと共に用心棒として働いていたところをエディ・シャーキーにスカウトされ〔『ロード・ウォリアーズ 破滅と絶頂』P41-44(2011年、東邦出版、ISBN 4809409511)〕、シャーキーのトレーニングを受けて1983年にデビュー。 地元のミネソタやカナダを転戦後、アメリカ南部を主戦場にヒールのポジションで活動。メンフィスのCWAではジミー・ハートのファースト・ファミリーに加入し、1984年6月11日にジェリー・ローラーからAWA南部ヘビー級王座を奪取。10月8日にはキングコング・バンディと組んでファビュラス・ワンズを破り、同タッグ王座も獲得している。フロリダのCWFでは1985年1月16日にペッツ・ワトレーからNWA南部ヘビー級王座を、4月16日にジェシー・バーと組んでジェイ・ヤングブラッド&マーク・ヤングブラッドからUSタッグ王座を奪取した。 ダラスのWCCWでは、1985年11月4日にキング・パーソンズを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座を獲得。翌1986年2月、WCCWのNWA脱退によるタイトル名の改称に伴い、そのままWCWA世界ヘビー級王座の初代王者に認定されている。同年5月5日にはランス・フォン・エリックを下してTV王座も獲得した。WCCWではパーシー・プリングル3世がマネージャーを務め、ザ・グレート・カブキやブラックジャック・マリガンと共闘、ケビン&ケリー・フォン・エリックをはじめ、ミッシング・リンクやブルーザー・ブロディとも抗争した。 1986年の下期からはジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区に進出し、ヒール軍団のポール・ジョーンズ・アーミーに加入。レイジング・ブルことマニー・フェルナンデスとコンビを組み、12月6日にロックンロール・エクスプレスからNWA世界タッグ王座を奪取、以降もロックンロール・エクスプレスやロード・ウォリアーズとタイトルを争った。 1987年7月よりWWFに参戦し、ボビー・ヒーナンをマネージャーに迎えてポール・オーンドーフやジェイク・ロバーツと抗争。1988年1月9日には、ボストン・ガーデンにてハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。1989年はアルティメット・ウォリアーと抗争を展開、4月2日開催のレッスルマニアVでウォリアーからWWFインターコンチンネンタル・ヘビー級王座を奪取している。 1990年にWCWに移籍し、ポール・E・デンジャラスリーのデンジャラス・アライアンスに加入してリッキー・スティムボートらと抗争。1991年11月19日、スティングからWCW USヘビー級王座を奪取。1992年12月に負傷のためタイトルを返上するまで、ニキタ・コロフやダスティン・ローデスを挑戦者に長期政権を築いた。復帰後の1993年はリック・フレアーと抗争を展開、9月19日のPPV "Fall Brawl 1993" ではフレアーから勝利を収め、「WCWインターナショナル世界ヘビー級王座」と改称されたフレアー・モデルのベルト(旧NWA世界ヘビー級王座および後のWWE版世界ヘビー級王座と同じベルト)を獲得している。 日本へは1991年7月に全日本プロレスに初来日。テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスと共闘してスタン・ハンセンとも対戦し、シングルマッチでは田上明からフォール勝ちを収めた。1992年8月には新日本プロレスに参戦し、G1クライマックス決勝戦で蝶野正洋に敗れるも準優勝を飾り、1994年は馳浩らと激闘を繰り広げ活躍したが、1995年以降はセミリタイア状態となり、マネージャーに転向した〔。 1997年にはECWに登場し、当時「ECW対WWF」の敵対アングルでトミー・ドリーマーと抗争していたジェリー・ローラーとも結託。同年9月、ECWとの提携ルートでWWFに再登場。ショーン・マイケルズ、ハンター・ハースト・ヘルムスリー、チャイナらの第1次D-ジェネレーションXに保険会社のエージェントとして参画した〔。1998年には再度WCWへ移籍し、nWoに加わってカート・ヘニングのマネージャーを担当〔。WCWには同年の末まで在籍した。 1999年4月20日、心臓麻痺により死去〔。。レスラーデビューから一貫してヒールで活動し、ベビーフェイスを演じなかった数少ないレスラーだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リック・ルード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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