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リッジフィールドの戦い()は、アメリカ独立戦争の1777年4月に、大陸軍とイギリス軍の間で行われた戦闘と一連の小競り合いの総称である。主たる戦闘は4月27日にコネチカットのリッジフィールド村で行われ、翌日にはリッジフィールドと現在のウェストポートに近い海岸線との間で小競り合いが起こった。 1777年4月25日、ニューヨーク植民地総督のウィリアム・トライアン少将の指揮するイギリス軍がコネチカットのフェアーフィールドとノーウォーク(現在のウェストポート)の間の海岸に上陸し、そこからダンベリーに向けて行軍した。そこでイギリス軍は小さな守備隊を追い散らした後に大陸軍の物資を破壊した。イギリス軍が動いているという報せが広まったとき、コネチカットの民兵隊指揮官達が行動に移った。デイビッド・ウースター少将、ゴールド・S・シリマン准将、およびベネディクト・アーノルド准将が大陸軍の正規兵と地元民兵を合わせておよそ700名の部隊を立ち上げ、イギリス軍に対抗しようとしたが、ダンベリーでイギリス軍が物資を破壊する前にそこに到着できなかった。その代わりに海岸に戻る途中のイギリス軍に対する攻撃にかかった。 4月27日、ウースター将軍に率いられた中隊が南に向かうトライアン部隊の後衛に2度攻撃を仕掛けた。その2度目の戦闘でウースターは致命傷を負い、5日後に死んだ。その後主戦闘がリッジフィールドで起こり、アーノルドの指揮する数百名の民兵がイギリス軍と対決し、町のメインストリートを駆けながらの戦いで追い返されたが、イギリス軍にはそこそこの損失を与えた。別の民兵隊が到着し、翌日にはイギリス艦隊が待っているコンポビーチに向かうイギリス軍への攻撃を続けた。アーノルドは民兵と幾らかの大砲を集結させ、イギリス軍の上陸点近くでイギリス軍に対して抵抗したが、その陣地が側面を衝かれ、イギリス軍の砲撃と銃剣突撃によって部隊は散り散りになった。 イギリス軍の遠征は戦術的には成功した形になったが、これを追いかけた行動でコネチカットのパトリオットの支援を固めることになった。イギリス軍はその後も2度コネチカットの海岸に近い町を襲った(1779年のトライアンの襲撃と1781年のイギリス軍に寝返ったアーノルドによる襲撃)が、内陸部深く入るような襲撃を行うことはなかった。 == 背景 == アメリカ独立戦争の初めの2年間でコネチカットは闘争の現場になってはいなかった。北に隣接するマサチューセッツでは1775年4月にこの戦争そのものが始まり、西のニューヨークでは1776年秋の作戦でニューヨーク市がイギリス軍に占領されていた〔Johnston, pp. 36, 46, 126–127, 448〕〔Ward, pp. 202–253〕。ニューヨークを占領するイギリス軍の総司令官ウィリアム・ハウ少将は1777年の作戦として反乱軍の首都フィラデルフィアを占領することを主目的とする構想を描いていた。ニューヨーク市防衛のために残された部隊には、元ニューヨーク植民地総督ウィリアム・トライアンの指揮下に植民地兵3,000名の1個旅団が含まれていた。トライアンは1777年春に「植民地軍の少将」に暫定昇進を果たしていた〔。ハウの作戦では、トライアンに「ハドソン川沿いで行動し、あるいは事情が許せばコネチカットに入る」権限を与えていた〔Nelson (1990), p. 150〕。トライアンはその作戦シーズンの初期行動として、コネチカットのダンベリーにある大陸軍補給所の襲撃を命じられた〔。ハウはその補給所の存在をインディアン代理人ガイ・ジョンソンのスパイ活動を通じて知っており〔Burr (1906), p. 141〕、その以前にもニューヨークのピークスキルにある大陸軍の補給所を襲撃して成功を収めていた〔Burr (1906), p. 142〕。 12隻の輸送船、1隻の病院船および幾隻かの小型舟艇からなる艦隊が編成され、ヘンリー・ダンカン海軍大佐の指揮に委ねられた。上陸部隊は第4、第15、第23、第27、第44および第66歩兵連隊から集められた1,500名の正規兵と、モンフォール・ブラウンが指揮するプリンス・オブ・ウェールズ・アメリカ連隊のロイヤリスト300名、および第17軽竜騎兵連隊の小部隊で構成され、総指揮はウィリアム・アースキンとジェイムズ・アグニュー各将軍が執った〔〔Case (1927), p. 12〕。作戦全体の指揮はトライアン将軍であり、艦隊は1777年4月22日にニューヨークを出港した〔Ward (1952), p. 492〕。 ダンベリー補給所は1776年に第二次大陸会議の命令で設立されており、主にハドソン川流域に位置する部隊に補給していた〔Ives (1900), p. 429〕。1777年4月、大陸軍はその年の作戦のために連隊を集結させ始めていた。トライアンの遠征隊がコネチカット海岸に上陸したとき、ダンベリーには土地の住人で民兵大佐のジョセフ・プラット・クックが指揮する約50名の大陸軍正規兵と100名の民兵が守っていた〔Ives (1900), p. 431〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リッジフィールドの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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