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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
リッチモンド・ケリー「テリブル」・ターナー (Richmond Kelly Turner, 1885年5月27日 - 1961年2月12日)は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は大将。第二次世界大戦においては、ソロモン諸島から沖縄にいたる主だった上陸作戦の指揮を執った。 == 生涯 == ===幼年期から青年期=== リッチモンド・ケリー・ターナーは1885年5月27日、オレゴン州ポートランドに父エノク・ターナー、母ローラ・フランシス・ターナーの8人兄弟の7番目の子として生まれる〔#谷光(2)p.372〕。「リッチモンド」の名は、リッチモンド公爵に由来する〔。ターナーの父系はイングランド系アメリカ人で、アメリカ独立戦争よりも前にメリーランド植民地に住み着いて農業を営んでいたが、アメリカ合衆国の領土が拡大するにつれて西へ西へと移っていった〔#谷光(2)p.371〕。エノクはゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州ストックトンで商店を営んでいたジョン・ターナーの9番目の子であり、長じてポートランドで週刊誌を発行していた兄トーマスの下に移った〔#谷光(2)pp.371-372〕。母系のケリー家はアイルランド系アメリカ人由来で、こちらもアメリカ独立戦争より前にペンシルベニアに移住していたが、やがて西部に移り住んだ〔。また、ケリー家はフィランソロピストとして学校や教会に幾度となく寄付を行った〔。一家はやがてストックトンに戻り、エノクはここでも週刊誌を発行した〔。ターナーもまた、一時期サンタアナに住んでいた時期を除いてストックトンで幼年期を過ごし、1904年にストックトン・ハイスクールを卒業した。 ターナーの学業成績はよく〔、カリフォルニア州選出の下院議員ジェームズ・キャリオン・ニーダムからの推薦を得て、1904年に海軍兵学校に入学する。この時同時に入学した者の中にはマーク・ミッチャーやトーマス・C・キンケイドらがおり、卒業年次から「アナポリス1908年組」と呼称された世代である〔#谷光(2)序頁〕〔海軍兵学校(江田島)の卒業年次に換算すると、南雲忠一、沢本頼雄、塚原二四三らを輩出した36期に相当する(#谷光(2)序頁)。〕。しかし、ミッチャーは2年目の秋、クラスのグループ同士で発生した喧嘩で死亡者が出た事件に巻き込まれ、また日頃の素行や成績もよくなかったこともあって退学処分となり、一旦アナポリスから去っていった〔#谷光(2)p.419〕。ターナーのアナポリスでの成績も比較的よく、1年目の総合成績は297名中14位で、1908年6月5日の卒業時には201名中5位にまで上昇していた〔#谷光(2)p.373〕。ちなみに、キンケイドの卒業成績は201名中136位だった〔。 卒業後、少尉候補生となったターナーはグレート・ホワイト・フリートの世界一周に途中から参加〔#谷光(2)pp.373-374〕。また防護巡洋艦「ミルウォーキー」 (''USS Milwaukee, C-21'') 、駆逐艦「プレブル」 (''USS Preble, DD-12'') 、装甲巡洋艦「ウェストバージニア」 (''USS West Virginia, ACR-5'') に乗り組む。2年後の1910年に少尉に任官し、8月3日にはストックトンでハリエット「ハーティー」・スターリングと結婚した〔#谷光(2)p.374〕。1913年に中尉に進級すると〔、駆逐艦「スチュワート」 (''USS Stewart, DD-13'') の艦長任務に従事する。その後、砲艦「」 (''USS Marietta, PG-15'') で勤務し、砲術に関する訓練やサントドミンゴ派遣などを経験〔。続いて1916年から1919年にかけて戦艦「ペンシルベニア」 (''USS Pennsylvania, BB-38'')、「ミシガン」(''USS Michigan, BB-27'') および「ミシシッピ」 (''USS Mississippi, BB-23'') で砲術士官として乗艦する。1919年から1922年までの間、少佐に進級していたターナーはワシントン海軍工廠に転任。その後は戦艦「カリフォルニア」 (''USS California, BB-44'') 砲術長、駆逐艦「」 (''USS Mervine, DD-322'') 艦長を務める。1925年には中佐に昇進して海軍省勤務となる。 兵站局時代、ターナーはアメリカ海軍航空隊を作ったウィリアム・A・モフェット少将(アナポリス1890組)の勧めで、ペンサコーラの海軍飛行学校でパイロットとしての訓練を受け、1927年に海軍パイロットの免許を取得〔#谷光(2)pp.378-379〕。水上機母艦「」 (''USS Jason, AC-12'') 艦長を経て、翌1928年にはの水上機部隊指揮官を務める。アジア艦隊時代には、フィリピン各地の写真偵察を行い、仮想敵国日本が侵攻してきた場合の参考資料をそろえた〔#谷光(2)p.379〕。1929年には計画課長、1932年から1934年までは空母「サラトガ」 (''USS Saratoga, CV-3'') 副長を務め、航空分野にも深く関わる〔#谷光(2)pp.380-381〕。1935年から1938年の間は兵站部門を受講し、受講後は戦略部門の教官に就任した〔#谷光(2)pp.381-382〕。海軍大学校でのターナーは航空の重要性を説き、後にターナーの予想が的中するが、この時点では賛同者は少数派だった〔#谷光(2)p.382〕。 海軍大学校時代に大佐に昇進したターナーは、将官への昇進のために大型艦艦長のポストを望み、その結果、重巡洋艦「アストリア」 (''USS Astoria, CA-34'') 艦長を務める〔#谷光(2)p.383〕。「アストリア」は、1939年2月26日に死去した日本の斎藤博駐米大使の遺骨の礼送を行った〔#アストリア(1)〕〔#アストリア(2)〕。この際、ターナーは日本政府から勲三等瑞宝章を授与されている〔#ターナー叙勲〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リッチモンド・K・ターナー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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