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リッチー・アッシュバーン : ミニ英和和英辞書
リッチー・アッシュバーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リッチー・アッシュバーン ( リダイレクト:リッチー・アシュバーン ) : ウィキペディア日本語版
リッチー・アシュバーン[ちょうおん]

リッチー・アシュバーン(Don Richard "Richie" Ashburn, 1927年3月19日 - 1997年9月9日)は、1950年代に活躍したアメリカメジャーリーグの選手。主なポジションは中堅手ネブラスカ州ティルデン生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Whitey"(ホワイティー)。広い守備範囲を誇っていたフィリーズのリードオフマン。
== 経歴 ==
1945年にフィリーズと契約し、3年後の1948年にメジャーにデビューする。1年目は117試合に出場し打率.333、32盗塁を決めルーキーでの盗塁王となった。当初は長打は少ないものの俊足を生かして安打数を稼ぐ打撃スタイルで、1951年と1953年にリーグの最多安打を記録している。1954年以降は四球を多く選ぶようになり打率が向上、1955年と1958年にはそれぞれ首位打者のタイトルをとっている。
1957年、アシュバーンはニューヨーク・ジャイアンツ戦でファウルを打った。ファウルボールは孫の帽子を直そうとしていた老婆の顔を直撃し、鼻骨を骨折させた。プレーは中断し、老婆は運ばれていった。再開すると、アシュバーンはもう一回ファウルを打った。ファウルボールは、担架で運ばれる途中の老婆にもう一度直撃してしまった。アシュバーンは花束を持って見舞いに何度も訪れ、タダ券を孫にあげたりクラブハウスに誘ったりした。
アシュバーンはその俊足を生かした広い守備範囲の持ち主でもあった。フィリーズ在籍中の1959年までの12年間で、刺殺数(外野手ではほぼフライを捕った数に相当)がリーグ最多となったのが9度に及ぶ。この中には、シーズンの刺殺数500以上を記録した年が4回含まれている。メジャーリーグ史上で、外野手のシーズン刺殺数が500を超えたことは計8度しかない(2006年現在)が、そのうちの4度はアシュバーンが記録したものである。
1960年にフィリーズから3対1のトレードでカブスに移籍。カブスに2年間在籍した後、1962年にメッツに移り、同年現役を引退。引退後はフィリーズの野球放送の解説者を20年続けた。ちなみにこの時一緒に仕事をしていたアナウンサーのバイ・サームハリー・カラスは、後年野球殿堂のフォード・フリック賞を受賞している。
1995年にベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り選手に選出。1997年に心臓発作のためニューヨークにて死去。現在のフィリーズの本拠地であるシチズンズ・バンク・パークのバックスクリーン裏の通路は、彼の名をとって「アシュバーン・アレー」と命名されている。また、アシュバーンの背番号『1』は古巣フィリーズにて永久欠番に指定されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リッチー・アシュバーン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Richie Ashburn 」があります。




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