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リッチー・カミューカ(Richie Kamuca、本名:Richard Kamuca、1930年7月23日 - 1977年7月22日)は、アメリカ合衆国のジャズ・サックス奏者。1950年代から1970年代にかけてアメリカ西海岸およびニューヨークを中心に活動し、レスター・ヤングの影響下にある流麗な演奏スタイルで活躍した。1977年に癌のため46歳で死去。 ==経歴== リッチー・カミューカは、1930年7月23日にペンシルベニア州 フィラデルフィアに生まれる。カミューカはハイスクール在学中からテナー・サックスを始め、レスター・ヤングの演奏法を学んだ後、1951年にスタン・ケントン楽団に入団し、1953年まで在籍した。その後1954年から1955年までウディ・ハーマン楽団に在籍、1956年1月には初のリーダー録音をキーノート・レーベルに行なったが未発売に終わり、新たにパシフィック・ジャズ・レコードと契約。ケントン楽団やハーマン楽団在籍時代に共演したビル・パーキンスやチェット・ベイカー、ショーティ・ロジャースなどのレコーディングに参加する。 1957年、カミューカはモード・レコードと契約、同レーベルを代表する作品とも言われる、2作目のリーダー・アルバムとなった「リッチー・カミューカ・カルテット」をはじめ、ケントン楽団時代の同僚であったトロンボーン奏者のフランク・ロソリーノやドラマーのスタン・リーヴィーなどのレコーディングにも参加した。1957年末にはハイ・ファイ・レーベルと契約するとともに、ハワード・ラムゼイが率いるライトハウス・オールスターズに加わり、1958年まで在籍したのち、同年の暮れから1959年にかけて古巣のケントン楽団およびハーマン楽団に一時的に復帰した。 1959年、カミューカは西海岸を離れニューヨークに移住。ドラマーのシェリー・マンのグループに加わり、同グループがハウス・バンドを勤めていたジャズクラブ「シェリーズ・マン・ホール」などで1962年まで演奏活動を行なった。1963年からはギル・エヴァンスやゲイリー・マクファーランド、リー・コニッツなどのレコーディングに参加したのち、1969年から翌年にかけてサド・ジョーンズ・アンド・メル・ルイス・オーケストラにメンバーとして加わった。1972年には約12年ぶりに西海岸に戻り、ジェリー・マリガンやロイ・エルドリッジなどと仕事をする。 1975年、カミューカはコンコード・レコードと契約し、1977年にはほぼ20年振りとなるリーダー・アルバムを数枚発表する。そのうちチャーリー・パーカーに捧げられたアルバム「チャーリー」では全編アルト・サックスを演奏するなど、新しい試みにも挑んだが、ギタリストのマンデル・ロウと共演したアルバム「リッチー」を発表後の1977年7月22日、47歳の誕生日の前日に、カリフォルニア州 ロサンゼルスにて癌のため死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リッチー・カミューカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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