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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
リップ・ホーク(Rip "The Profile" Hawk、本名:Harvey Maurice Evers、1930年6月6日 - 2012年12月22日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ノースカロライナ州シャーロット出身。 スウェード・ハンセンとのブロンド・ボンバーズ(The Blond Bombers)など、タッグマッチの名手として活躍、日本では「タッグの解体屋」の異名を付けられた〔竹内宏介監修『世界名レスラー100人伝説!!』P116-117(2003年、日本スポーツ出版社)〕。駆け出し時代のリック・フレアーも、彼のパートナーに起用されて飛躍のきっかけを掴んだ〔〔リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P69-70(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757721536)〕。 == 来歴 == デビュー後の1950年代は、ノースカロライナをはじめイリノイやオハイオ、セントラル・ステーツなど各地を転戦〔。ジョージアではフレッド・ブラッシー、セントルイスではカウボーイ・ボブ・エリスやジョニー・バレンタインと対戦し、ジン・キニスキーともタッグを組んだ。1961年10月23日にはホームタウンのシャーロットにて、バディ・ロジャースのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している〔。 1962年より、地元ノースカロライナを本拠地とするミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング(MACW)にて、スウェード・ハンセンとの金髪のヒール・タッグチーム、ブロンド・ボンバーズを結成。以降、小型ラフファイターの司令塔ホークと巨漢パワーファイターの執行者ハンセンというコンビネーションのもと、各地のタッグマッチ戦線を席巻〔〔。1965年8月3日にはフロリダにてデューク・ケオムカ&ヒロ・マツダからNWA世界タッグ王座を獲得。1967年5月には日本プロレスに揃って来日、アントニオ猪木&吉村道明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した〔。 1968年6月には主戦場のMACWにてエドワード・カーペンティア&ミゲル・ペレスを下し、NWAアトランティック・コースト・タッグ王座の初代チャンピオン・チームとなる(以降もネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズなどのチームを抗争相手に、通算4回に渡って戴冠)。ジム・バーネットが主宰していたオーストラリアのワールド・チャンピオンシップ・レスリングにも遠征し、1970年4月にバディ・オースチン&カーティス・イヤウケアから豪州版のIWA世界タッグ王座を奪取した。主戦場のMACWでは1972年にジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーと抗争。シングルでも実績を残し、同年上期にジャック・ブリスコ、下期にジェリー・ブリスコを相手にNWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座を争い、通算4回に渡ってブリスコ兄弟から同王座を奪取している。 1973年末より一時MACWを離れて単身でフロリダ地区に転戦していたが、その間にスウェード・ハンセンがベビーフェイスに転向。1974年のMACW復帰後はハンセンを裏切り者呼ばわりして遺恨試合を展開し、若手ヒールのリック・フレアーを自分の「甥」と称して新パートナーに起用。7月4日にはNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得、フレアーにとっては初のタイトル戴冠となった(デビュー2年目のグリーンボーイだった当時のフレアーは、それまで経験したことのない多くのことをホークから学んだと自著で述懐している)〔。 以降はハンセンと袂を分かち、1975年はNWFの残党が参画していたアメリカ北東部の独立団体IWAに出場、ネルソン・ロイヤル、ディノ・ブラボー、ジノ・ブリット、マイティ・イゴール、アルゼンチン・アポロ、ペッツ・ワトレーなどと対戦し、ミル・マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した。 1976年、テキサス西部のアマリロ地区にてハンセンとのブロンド・ボンバーズを再結成。翌1977年にかけて、同地区のフラッグシップ・タッグタイトルだったNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を通算3回獲得した(その間の1976年10月には、単身で新日本プロレスに参戦、9年ぶりの来日を果たしている〔)。アマリロではドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスとも対戦。ファンクスはアンドレ・ザ・ジャイアント、ボンバーズはサイクロン・ネグロと組んでの6人タッグマッチも行われた。 1977年後半にハンセンがアマリロを離れてチームは正式に解散したが〔、ホークは1980年まで同地区に定着してリッキー・ロメロらと抗争〔。キャリア末期の1981年はカルガリーのスタンピード・レスリングに出場していた〔。 晩年はテキサス州ハーフォードに居住し、1990年代はYMCAにてレスリングのコーチをしていた〔。2007年には、すでに他界していたハンセンと共にミッドアトランティック版のNWA殿堂に迎えられた(殿堂入りのインダクターは、彼らのマネージャーを務めていたゲーリー・ハートが担当した)。 2012年12月22日、心臓病のため死去〔。〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リップ・ホーク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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