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リヒャルト・ヴェッツ
リヒャルト・ヴェッツ(Richard Wetz、1875年2月26日 - 1935年1月16日)は、ドイツの作曲家。後期ロマン派の作風による交響曲によって知られる。これらの作品においてヴェッツは「ブルックナーを直に受け継ぐ後継者になろうとしたように思われるが、それは結果として彼を音楽の歴史の端に追いやってしまった〔Williamson, John. ''The Cambridge Companion to Bruckner''. Cambridge University Press, 2004. Page 260.〕」。 == 生涯 ==
===1875年–1906年: 若年期=== ヴェッツはドイツ帝国シュレージエン地方のグライヴィッツ(現在はポーランド領)で商人の家系に生まれた。父はオーストリアから移住してきたゲオルク・ヴェッツ(1849年–1903年)、母はクララ(旧姓ムッヒャ; 1852年–1906年)であった。家庭にはピアノが置かれていたものの、家族には特に音楽に関心を持つ者はいなかった。早くから音楽に惹かれて行った幼いリヒャルトが正式なピアノのレッスンを受けることが出来たのはようやく8歳になる頃であったが、ピアノ小品や歌曲を作曲するなどしつつ独学で学習を進めていった。彼は後年、モーツァルトの交響曲第40番を初めて聴いた13歳頃には音楽に人生を捧げる決心をしていたと述べている。 1897年に最終試験に合格し、ヴェッツはライプツィヒの音楽院に赴きカール・ライネッケ及びザーロモン・ヤーダスゾーンに師事した。しかし、わずか6週間後には講義が過度に伝統にとらわれていると感じ、幻滅した末に音楽院を後にしてしまった。代わりに、当時ライプツィヒ音楽アカデミーの学長を務めていたリヒャルト・ホフマンの個人指導を半年間受けている。同時期にライプツィヒ大学に籍を置いたヴェッツは哲学、心理学、文学などを学び始めた。フリードリヒ・ヘルダーリン、ハインリヒ・フォン・クライスト、そして特にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテといった詩人を研究したヴェッツは、その後の作曲家としての作品に彼らから大きな影響を受けている。同様に、アルトゥル・ショーペンハウアーの哲学思想も信奉していた。1899年秋、ライプツィヒを離れてミュンヘンに移ったヴェッツは、そこでルートヴィヒ・トゥイレに音楽を師事するようになった。1900年には再び勉学を中断してシュトラールズントに赴いたヴェッツは、フェリックス・ワインガルトナーに見出されて劇場楽団の指揮者として雇われることになる。数か月後にはバルメン(現在のヴッパータールの一部)で同様の職についていた彼であったが、さらにしばらく経つと雇用を失ってライプツィヒに戻って来ていた。ライプツィヒではさらに独学で音楽史を学び、また過去から現在までの作曲家たちの楽譜を研究した。アントン・ブルックナーとフランツ・リストが彼にとって目指すべき最も重要な人物となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リヒャルト・ヴェッツ」の詳細全文を読む
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