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リューベチ諸公会議(リューベチ会談)(、)は、1097年にリューベチで開かれたルーシ諸公による会談である。領土争いに起因する諸公間の紛争を終わらせ、ルーシを荒廃させているポロヴェツ族に対して団結することを目的として開催された。 ==会議の決定事項と結果== 『原初年代記』は、諸公による領土分割に関する話し合いの様子を次のように記している。 上記の記述を整理すると、諸公の領土は以下のように分配されたことになる。 *スヴャトポルク2世ペレヤスラヴリ、スーズダリ、ロストフ、スモレンスク、ベロオゼロ。 *ダヴィドチェルニゴフとシヴェーリア、リャザン、ムーロム、トムトロカン(ru)。 *イーゴリの子のダヴィドヴォロダリ[G]兄弟:テレボヴリ、チェルヴェン(ru)、ペレムィシリ。 しかしリューベチでの決定は、内紛を完全に防ぐことはできなかった。この決定事項は、早くもリューベチ会談の同年に、ヴァシリコから領土を奪おうとした、イーゴリの子のダヴィドによって破られた。ダヴィドはヴァシリコを欺いて捕らえ、両目を抉った〔國本哲男『ロシア原初年代記』283頁〕。この行為は他の公たちの憤慨を招き、諸公間の紛争へと発展した。1100年、ウヴェティチ(現ウクライナ・ヴィターチウ(uk))で、紛争を調停するため新たな会議(ru)が開かれた〔國本哲男『ロシア原初年代記』295-296頁〕。 リューベチ諸公会議のもう一つの目的であったポロヴェツ族に対しては、スヴャトポルク2世、ウラジーミル・モノマフらをはじめとする諸公の連合軍が、1103年の会戦でポロヴェツ諸部族の連合軍を破った〔國本哲男『ロシア原初年代記』299-302頁〕。1111年のドネツ川上流の戦いでは、ポロヴェツ族に大打撃を与えた。その後はポロヴェツ族の攻撃的な行動は減少し、しばしば、ルーシとポロヴェツの指導者層の間で婚姻が結ばれた。また、ルーシ諸公は他の公との紛争に、ポロヴェツ族の援軍を頼むということも起きた。ポロヴェツ族が最大の脅威であることには変わりがなかったが、時代が下ると共に、上記のようにルーシ諸公とポロヴェツ族との関係は変遷していくことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リューベチ諸公会議」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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