翻訳と辞書
Words near each other
・ リューリカ TR-1
・ リューリカ・サトゥールン
・ リューリカ設計局
・ リューリカ=サトゥールン
・ リューリカ=サトゥールン AL-31
・ リューリク
・ リューリク (曖昧さ回避)
・ リューリク (装甲巡洋艦・2代)
・ リューリク (装甲巡洋艦・初代)
・ リューリク1世
リューリク2世
・ リューリク・ロスチスラヴィチ
・ リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)
・ リューリク・ロスチスラヴィチ (ペレムィシュリ公)
・ リューリク家
・ リューリク朝
・ リューリック
・ リュール
・ リューロトの定理
・ リューローの定理


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

リューリク2世 : ミニ英和和英辞書
リューリク2世[よ, せい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

リューリク2世 ( リダイレクト:リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公) ) : ウィキペディア日本語版
リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)[よ, せい]
リューリク・ロスチスラヴィチ(、? - 1210年代)はキエフ大公ロスチスラフの子である。ノヴゴロド公:1170年 - 1171年、オーヴルチ公:1173年 - 1194年、、キエフ大公:1173年、1181年、1194年 — 1201年、1203年 - 1204年、1205年 - 1206年、1207年、1210年。チェルニゴフ公:1210年 - 1212年〔Бережков Н. Г. Хронология русского летописания . М. 1963.〕。リューリク朝の一枝スモレンスク・ロスチスラフ家の出身であり、キエフ近郊のオーヴルチを拠点として、スーズダリ・ユーリー家、ガーリチ・ロマン家、チェルニゴフ・オレグ家らとの政権闘争を繰り広げた。
==生涯==

===アンドレイとの共闘・闘争===
1167年にキエフ大公である父が死んだ後、キエフ大公位には従兄弟のムスチスラフが就き、リューリクはオーヴルチを領有した〔Рюрик-Василий Ростиславич // Русский биографический словарь. 1896 - 1918〕。1169年、ウラジーミル大公アンドレイ(ru)(スーズダリ・ユーリー家)はキエフを陥すと(ru)、ムスチスラフを廃してアンドレイの弟のグレプをキエフ大公位に就かせた。さらに翌1170年、アンドレイがノヴゴロドへ出兵すると、ノヴゴロドの人々はロマン(先に廃されたムスチスラフの子)を追放し、リューリクをノヴゴロド公位に招いた。また、1171年にはリューリクの兄弟のロマンがキエフ大公に立てられた際に、リューリクはアンドレイからベルゴロドを受領している。
しかしこの年以降、リューリクは兄弟と共に、反アンドレイの姿勢を明確にする。1173年にアンドレイがその弟のミハイルをキエフ大公に立てると、リューリクは弟ダヴィドと共にキエフ近辺を防衛し、アンドレイによって派遣されたフセヴォロド(アンドレイの弟)、ヤロポルク(ru)を捕虜とし、リューリクはキエフ大公位を奪った。これに対してアンドレイが兵を繰り出すと、リューリクはキエフを捨て(代わりにヤロスラフがキエフに入った。)、ベルゴロドに籠城した。その後、1174年にアンドレイが死亡すると、リューリクの兄弟のロマンが再びキエフ大公位に就いた。
また、1176年、ロストヴェツの戦い(ru)においてポロヴェツ族に敗れている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.