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マティルデ・フォン・リンゲルハイム(Mathilde von Ringelheim, 895年頃 - 968年3月14日 クヴェトリンブルク)は東フランク王ハインリヒ1世の妻。2人の長子オットーは、のちの神聖ローマ皇帝オットー1世である。英語表記でマティルダ(Mathilda)とも。 カトリック教会の聖人。記念日は3月14日。 マティルデについて現在知られていることは、修道僧コルヴェイのウィドゥキントの手になる『サクソン人の事跡』(''Res Gestae Saxonicae'')にある短い記述、および作者不明の二つの聖人伝に基づいている。聖人伝は、それぞれ『ヴィタ・アンティクィオール(古い伝記)』''vita antiquior''(974年頃)と『ヴィタ・ポステリオール(新しい伝記)』''vita posterior''(1003年頃)と呼ばれている。マティルデはヴェストファーレン伯ディートリッヒ〔916年または917年没。ザクセンの伯でウィドゥキントのひ孫とされるImmedとマティルデの子。(Ludwig A. Winterswyl, ''Otto der Grosse und das Erste Reich der Deutschen'', Obelisk-Verlag, 1937, p.94)〕と妻ラインヒルト・フォン・フリースラントの娘で、伝記作家らによれば、その家系は9世紀のサクソン人の英雄ウィドゥキントに遡る。若いマティルデはヘルフォートの修道院で育てられ、その美しさと徳性はザクセン公オットーの耳に達した。オットーは息子ハインリヒとマティルデを婚約させた。2人は909年に結婚し、息子3人娘2人を儲けた。 # オットー1世 # バイエルン公ハインリヒ1世 # ケルン大司教ブルーノ # ザクセンのゲルベルガ、(1) ロートリンゲン公ギゼルベルト(死別) のちに (2) ルイ4世の妻 # ザクセンのヘトヴィヒ、西フランク公ユーグ大公の妻 936年に夫が死去すると、マティルデは息子オットーの宮廷に留まったが、マティルデが自分の慈善事業のために王の財産を流用していると王の側近たちが彼女を告発したと伝えられている。この後、マティルデはしばらくウェストファリアのエンガーの修道院に流刑となったが、オットーの最初の妻でアングロサクソンの王女エドギタのとりなしで、マティルデは宮廷へ戻った。 マティルデは祈祷と貧者への施しに熱心なことで知られた。マティルデの最初の伝記作家によれば、マティルデは夜中に熟睡した夫の傍を離れて教会へ祈祷に忍び出たという(この記述はヴェナンティウス・フォルトゥナトゥスによるフランク王妃ラデグントの伝記の記述に相当に依拠している)。マティルデは多くの宗教的施設を建てた。その中で、クヴェドリンブルク修道院は聖俗の両面でオットー朝の生活の中心地となった。マティルデと夫ハインリヒはともにこのクェドリンブルク修道院に葬られた。もうひとつマティルデが建てたノルトハウゼン修道院では、彼女の伝記のうち少なくともひとつが著されたと思われる。マティルデは死後まもなく聖人として崇敬されるようになり、列聖された。 ==脚注== 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リンゲルハイムのマティルデ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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