翻訳と辞書
Words near each other
・ リンダキューブ アゲイン
・ リンダキューブ 完全版
・ リンダラハ
・ リンダリンダ
・ リンダリンダリンダ
・ リンダン
・ リンダン・ハーン
・ リンダ・B・バック
・ リンダ・O・ジョンストン
・ リンダ・アルディ
リンダ・イーストマン
・ リンダ・ウィルムセン
・ リンダ・ウォン
・ リンダ・ウールヴァートン
・ リンダ・エスター・グレイ
・ リンダ・エモンド
・ リンダ・エヴァンジェリスタ
・ リンダ・オブスト
・ リンダ・カーター
・ リンダ・カーデリーニ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

リンダ・イーストマン : ミニ英和和英辞書
リンダ・イーストマン[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リンダ・イーストマン ( リダイレクト:リンダ・マッカートニー ) : ウィキペディア日本語版
リンダ・マッカートニー[ちょうおん]

リンダ・ルイーズ・マッカートニー(Linda Louise McCartney, 1941年9月24日 - 1998年4月17日)は、アメリカ合衆国写真家ミュージシャン料理研究家
1960年代中盤から後半にかけ、リンダ・ルイーズ・イーストマンとしてローリング・ストーンズをはじめとする様々なロック・ミュージシャン専門のカメラマンとして活動した。1969年に、ビートルズポール・マッカートニーと結婚し、リンダ・マッカートニーとなる。1971年から約10年に渡り、彼のバンド「ウイングス」でコーラスキーボード担当のオリジナル・メンバーのひとりとして活動し、ウイングス解散後も夫のコンサートに参加するなど、公私にわたって彼を支え続けた。夫妻揃ってヴェジタリアンであることが知られ、菜食主義者向けの料理研究家としても数冊の著書を残している。父親のリー・イーストマンは1970年以降、義理の息子であるポール・マッカートニーの弁護士を務めた(1991年死去)。
== 生涯 ==
弁護士リー・イーストマン(ユダヤ系ロシア人移民のレオポルド・ヴェイル・エプステインの子)とルイーズ・サラ・リンドナーの娘として生まれ、ニューヨーク郊外のウエストチェスターにある高級住宅街スカースデイル(ちなみに同時期には、ジョン・レノンの夫人であるオノ・ヨーコの家族も住んでいた)で裕福な幼少時代を過ごした。なお、旧姓がイーストマンで、職業が写真家だったことからイーストマン・コダック社の一族と血縁関係にあるのではないかという噂が立ったが、本人はインタビューの中でこれを否定している(父がロシア系ユダヤの姓であるエプスタインからイーストマンと改姓した)。ロックンロールやR&Bに陶酔する活発な少女だったようで、両親に内緒でバディ・ホリーのライブを観に行ったことも。1962年に大学在学中に知り合った地質学者のジョセフ・メルビル・シー・ジュニアと結婚し、長女のヘザー(Heather McCartney)をもうけたが、保守的な夫と外向的な性格だったリンダの性格不一致から、僅か1年足らずで離婚する。同年には母ルイーズアメリカン航空1便墜落事故で死亡している。
短い結婚生活を終えると、彼女は幼いヘザーを連れて故郷ニューヨークに戻り、撮影の技法を勉強して本格的に写真家としての活動を開始する。そして、音楽雑誌に掲載されたローリング・ストーンズの写真を撮影したことをキッカケに一躍有名になる。その後、ジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンサイモン&ガーファンクルなど、当時のミュージック・シーンを代表するありとあらゆるミュージシャンたちを撮影し、ヘンドリックスやポール・サイモンミック・ジャガーなどとは普段でも親しかったといわれている。
1967年、ロンドンの「バック・オネイルズ」という名のクラブでビートルズポール・マッカートニーと知り合う。当時ポールはジェーン・アッシャーピーター&ゴードンピーター・アッシャーの妹)と婚約していたが、翌年になって破局。その後、すぐにポールとリンダは交際するようになる(その後、ポールはビートルズのレコーディング・セッションにもリンダを同伴させることが多くなる。リンダが撮影したレコーディング中のビートルズの写真も多数残されている)。そして1969年3月12日に正式に結婚。しかし、ビートルズのメンバーの中でもとりわけ存在感の強いポールと結婚した彼女と、ジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコに対する世間の風当たりは非常に強く、離婚歴のある子連れの女性であることなども含めて、彼女たちは心無いマスメディアや女性ファンたちの攻撃の対象になった。
ポールとの結婚後は写真家としては実質的に引退し、夫やごく親しい人物に関連する写真以外では本業を行うことはなくなり、ポールのファースト・アルバム「マッカートニー」のジャケットなどを手がけた。1971年からは、ポールが新たに結成したバンド「ウイングス」のオリジナル・メンバーとして参加。1970年代を代表する人気バンドとなったウイングスの中ではコーラスキーボードを担当し、アルバムのみならずステージ上でも演奏したが、もともと音楽的な教養や経験がなく、素質に欠けていた彼女の演奏力は評論家やファンに強く批判された。しかしながら、リンダのコーラスはウイングスやポールの作品では重要な要素を形成しているといえる。「クック・オブ・ザ・ハウス」ではメインヴォーカルも披露している。
ポールとの間には1男2女をもうけ、長女のメアリー(Mary McCartney)は写真家、次女のステラは世界的な人気ファッションデザイナー、長男のジェイムズはミュージシャンとして活動している。
1980年1月16日に、ポールが成田空港で大麻不法所持の容疑で逮捕されたのをきっかけにウイングスは活動休止状態に陥り、翌年には実質的に解散。しかし、それ以降もポールは自らのソロ・アルバムに度々リンダをコーラスで参加させ、1990年代に行った2度のコンサート・ツアーでもウイングス時代同様に彼女をキーボーディストの一人として起用している。また、時々プライベートでレコーディングもしていた。一部の企画盤を除く全てのポールのオリジナル・アルバムに彼女の名前は記されている。1992年1996年には、結婚前の写真家としての活動を総括する内容の2冊の写真集『シックスティーズ』『ロードワークス』を発売。1990年代にはベジタリアンのための料理研究家としても活躍の場を広げ、テレビのレギュラー番組を持ったり2冊のレシピ集も発表したほかに、冷凍食品の開発・監修もしている。
1995年乳癌であることが発覚。同年秋に行われた手術は成功し、一旦は快方に向かっていると思われていたが、1997年に再発。やがて各部位に転移し、手の施しようのないほど病状が悪化してからはアリゾナ州にある別荘で家族と共に余生を過ごしたといわれている。1998年4月17日アリゾナ州ツーソンで死去。遺体は火葬にされ、遺灰の半分はポールが所有するスコットランドの農場に、そして残りはツーソンの別荘に撒かれた。
死後には、ポールと録音した曲を集めたアルバム『ワイド・プレイリー』が発売され、翌1999年にはポール・マッカートニーによるリンダへの追悼の意を込めた2枚のクラシック作品が発表された。2000年の3月には、当時62歳だった最初の夫ジョセフ・シーが拳銃で頭を撃ち抜いて自殺する。その日は、ポールがのちに夫人となる年下の元モデル、ヘザー・ミルズとの交際を正式に認めた翌日のことだった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リンダ・マッカートニー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Linda McCartney 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.