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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
リンド・ウォード(Lynd Ward、1905年6月26日 - 1985年6月28日)は、アメリカ合衆国の版画家。多数の児童書、限定本に挿絵をつける一方、『神の僕』『狂人の太鼓』など、連続する木版画のみで物語を表現する「文字のない小説」を刊行し、アメリカ合衆国における木版画の主導的作家となった〔国書刊行会版 『狂人の太鼓』 見返し〕。 == 生涯 == 1905年、イリノイ州シカゴに生まれる。父はメソジスト派の牧師で著名な政治活動家であった。4歳のとき一家はオークパークに移り、その後はマサチューセッツ、ニュージャージーで少年時代を送った。家庭ではメソジスト派の伝統で静かに過ごすきまりがあったため、ウォードは自然に本と親しむようになったが、読むよりも絵を見ているほうが多かったという。当時のお気に入りの本はドレの挿絵入りの聖書と、自分のおもちゃでサーカスをつくる少年の物語で、これらの本にのめりこんだことが後の絵に対する興味へとつながった〔牧眞司 「リンド・ウォードの最高傑作」 国書刊行会版 『狂人の太鼓』 付録冊子〕。 初学年のとき、ウォードは自分のラストネームを逆に書くと「draw」(描く)になることに気付き、画家を志望する決意をした。高校の美術の授業でリノリウムを使った版画制作を体験し、これをきっかけに様々な版画技法を試み、さらにコロンビア大学に進んで美術を専攻した。しかし版画・印刷が低く見られていることに不満を抱き、ヨーロッパへの留学を決意する。1926年、大学を卒業したその週のうちに大学の同窓生メイ・マクニアーと結婚、新婚旅行でヨーロッパにわたりそのままライプツィヒの国立美術アカデミーに留学してグラフィックアートを学んだ〔。在学中にライプツィヒの本屋を訪れたとき、ウォードはベルギーの版画家の、木版画の連作による物語を見つけ、この出会いがのちの「文字のない小説」の構想のきっかけとなった。 アメリカに戻ったウォードはまずイラストレーションに活躍の場を求めて児童書の挿絵を担当、1929年には妻マクニアーが文を担当した源義経の物語『Prince Bantam』の挿絵を制作した。この年にかねてから温めていた「文字のない小説」の出版計画をすすめ、知人のハリソン・スミスが新しく起した出版社と契約して29年10月に第一作『God's Man』(神の僕)を出版。おりしもニューヨーク株式市場が大暴落し世界恐慌がはじまったが、不況にもかかわらず『God's Man』は版を重ね、1930年にはさらに意匠をこらした第二作『Madman's Drum』(狂人の太鼓)を出版した。その後ウォードは1937年までに4冊、合計6冊の「文字のない小説」を出版している〔。 また『Madman's Drum』の出版と前後してヘリテージ・リミテッド・エディションズ・クラブから限定本の挿絵の注文を受けるようになり、古典や幻想文学、児童文学の挿絵を数多くこなしていった。ウォードが生涯に挿絵を描いた作品は100を超える。木版画のほかにも水彩、油彩、ペン、リトグラフ、メゾチントなどによる作品も残している〔"Lynd Ward." Authors and Artists for Young Adults. Vol. 80. Gale, 2009. Reproduced in Biography Resource Center. Retrieved 1 January 2010.〕。作品のテーマとしては、労働者や階級問題などの社会的トピックを好んで取り上げた。ウォードは『America's Ethan Allen』(1950年)および『The Biggest Bear』(1953年)の二冊がコールデコット名誉賞を受けたのをはじめ多数の賞を受賞しており、また彼が挿絵を書いた本のうち2冊がニューベリー賞を、6冊がニューベリー名誉賞を受賞している。1979年、ウォードは引退してヴァージニア州のレストンの家に住み、1985年6月28日、80歳の誕生日の2日後に死去した。2011年、ウォードはアイズナー賞の「漫画家の殿堂」に選出された〔http://www.comic-con.org/cci/cci_eisners_11nom.php#nominees〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リンド・ウォード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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