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リバプール・アンド・マンチェスター鉄道(リバプール・アンド・マンチェスターてつどう、英 L&MR: Liverpool and Manchester Railway)は、世界で最初の実用的な蒸気機関車を用いた鉄道である。全ての列車が時刻表に基づいて運行され、ほとんどの区間で蒸気機関車が牽引する都市間旅客輸送鉄道であった〔ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は1825年に開業しているが、一部区間はケーブル牽引で、また石炭輸送列車のみが蒸気機関車牽引であった。は1830年5月開業であるが、ほとんどの区間でケーブル牽引であった。リバプール・アンド・マンチェスター鉄道でケーブル牽引が用いられていたのは、リバプール市内のの区間のみである。〕。リバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、リヴァプールの港とマンチェスターとその周囲の北西イングランドの町の工場を結んで、原料と製品をより高速に輸送できるように建設された。 == 歴史 == === 建設まで === 原料と製品の輸送を効率化するため、リヴァプール港と東ランカシャー間で計画された。膨大な量の織物原料がリヴァプール港を通じて輸入され、大量生産の拠点となっていたペナイン山脈近郊の工場へと輸送されていた。しかし18世紀から存在していたアーウェル川(River Irwell)やブリッジウォーター運河(Bridgewater Canal)の水運は、過剰な運賃によってマンチェスターの経済成長の妨げをしていると考えられていた(なお、後に鉄道についても同様の事態となり、逆に1890年代のマンチェスター運河(Manchester Ship Canal)の建設につながった)。寄付については路線の両端の都市から支援が寄せられたが、一方で通過することになる土地の所有者からは反対された。 もともとの発起人は、リヴァプールの裕福なとうもろこし商人のジョセフ・サンダース(Joseph Sandars)と、マンチェスター最大の紡績工場の所有者であるジョン・ケネディ(John Kennedy)であると見られており、彼らはウィリアム・ジェームス(William James)の影響を受けたものとされる。ジェームスは土地投機で財を成した土地鑑定人で、北イングランドにおいて炭鉱鉄道と機関車技術の発展を見て、全国規模の鉄道網を提唱していた。 1823年5月24日、社長兼財務担当のヘンリー・ブース(Henry Booth)とリヴァプール、マンチェスターの商人たちによって鉄道会社が設立された。1825年に議会に提出された会社に関する法案は否決されたが、翌年5月可決された。リヴァプールでは172人が1979株を、ロンドンでは96人が844株を、マンチェスターでは15人が124株を、他の地方の24人が286株を引き受けた。第2代スタッフォード侯爵ジョージ・ルーソン=ゴア(後の初代サザーランド公爵)が1人で1000株を引き受けて、合計で308人の株主が4233株を引き受けている。 路線建設のための実地調査はウィリアム・ジェームスが行ったが、不法侵入によって行われた挙句に間違いの多いものであった。その上調査期間の間に破産したため、代わりとして1824年にジョージ・スチーブンソンが技師として任命された。しかし本人は学校教育を受けておらず、必要な計算なども十分にできない状況で多くの仕事を抱えていた。このため十分な教育を受けた息子のロバート・スチーブンソンにこの分野を任せ、ロバートが南アメリカへ行っていたこの時期には路線調査を部下に一任していた。1825年の議会への提案では、特にアーウェル橋(Irwel bridge)関連の事項について誤りが発覚し、法案は却下された。主な反対派は、G. H. ブラッドショー(G. H. Bradshaw)で、ブリッジウォーター運河も保有するスタッフォード侯爵のワースレイ(Worsley)の資産の管財人であった。 このような状況の中、失敗続きであったジョージ・スチーブンソンの代わりに、ジョージ・レニー(George Rennie)とジョン・レニー(John Rennie)が技師に指名された。そこで二人は路線調査担当にチャールズ・ブラッカー・ビグノールス(Charles Blacker Vignoles)を選んだ。これに加えて運河側の反対派に対する説得も試みた。侯爵の資産管財人の1人と親戚であった鉄道会社顧問のアダムの尽力と、個人的に公爵と知り合いであったウィリアム・ハスキソンの助けを得て侯爵との直接交渉に成功した。これにより鉄道建設に対する根強い反対は一転、侯爵自身の鉄道への出資という形で支援を得ることができた。 2回目の法案は1826年に国王の裁可を得た。1回目の法案に猛反発した人々の敷地を避け、今回は大きく異なる線形を採用した。その結果チャット・モス湿地帯(Chat Moss)を横断することになった。マンチェスター側の終点は、アーウェル川よりもサルフォード(Salford)側におく予定になっていたが、鉄道会社の建設する橋を水運側が荷車を運行するために利用する権利を与えることと引き換えに、水運側が最終的に川の横断を承諾したため、マンチェスター駅はカッスルフィールド(Castlefield)の中心部のリヴァプール通りに設置されることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リバプール・アンド・マンチェスター鉄道」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Liverpool and Manchester Railway 」があります。 スポンサード リンク
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