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ティトゥス・リウィウス(Titus Livius, 紀元前59年頃 - 17年)は、共和政末期、帝政初期の古代ローマの歴史家。単にリウィウスと呼ばれることが多い。アウグストゥスの庇護の下に『ローマ建国史』を著した。 == 出生と業績 == リウィウスは、パタウィウム(現在のイタリア・パドヴァ)において生まれた。結婚しており少なくとも2人の子供がいた。没したのもパタウィウムであり、一部の記録では死んだのは11年または16年-17年であるとされる。 リウィウスの企図の規模と巨大さはその最も著名な作品『ローマ建国史 (Ab Urbe Condita)』の直訳したタイトル『都市の創設から』にも表れている。リウィウスは著述において新たなコンスルの選出を告げるために物語をしばしば中断させているが、このような年代記と物語を足し合わせたような書き方はローマ人が歴史著述を行う際にしばしば用いる方法であった。リウィウスは紀元前387年のガリア人によるローマの破壊によって生じた史料の不足が自身の仕事を困難にしたと嘆いている。 リウィウスは、アウグストゥスの治世に作品の大部分を書いたが、彼自身は共和政への強い愛着を抱いており再び共和政へローマが復帰することを望んでいたとされる。ただしこの点については、共和政の終焉及びアウグストゥスの政権掌握までを記したはずの後半部分の巻が失われているため、争点もある。確かにリウィウスは新しい政体の価値には疑問を抱いていた。しかしかといって単に帝政か共和政かの一方を支持していたというような単純な立場ではなく、より複雑な立場にあったといえる。アウグストゥスはリウィウスを帝政への反対者とはみなしておらず、彼に自身の義理の孫にあたるクラウディウスの指導を委ねていた。リウィウスのクラウディウスへの影響は、のちに皇帝となって行った弁論にリウィウスのローマ史観が忠実に織り込まれていることからも明白である。 リウィウスの文体は、カエサルやキケロといった秀逸な書き手とは一線を画したものであり、詩的で古典的な文章であった。リウィウスはローマによるイタリアおよび地中海世界の征服についてローマ人の徳を強調するため、ローマ人に反抗する人々の視点から著述を行った。また詩的表現のため事実とフィクションの区別をそれほど行わなかった。このほか、過去の作家の記述も引用しているが、これらは過去の道徳的教訓として当時のローマ社会に資することを望んでのものであった。 リウィウスの業績は、142巻にもわたる膨大なものであったが、そのうち1巻から10巻までと21巻から45巻までの計35巻については現存している。1772年には、バチカン図書館で上書きされた写本(パリンプセスト)の下からおよそ1000語を含んだ第91巻が発見されている。また1900年ごろからエジプトでは、分量ははるかに少ないものの未知の断片を含むパピルス片が発見されている。最近のものでは1980年代に第11巻の40語ほどの断片が発掘されている。 リウィウスの業績は古代の時点で概要に要約にされており、1巻に要約されたものが現存している。またこの概要をさらに単なるリストにまで要約した ''Periochae'' と呼ばれるものも現存している。エジプトのオクシリンコス・パピルスからも、37巻から40巻までと48巻から55巻までの要約が発見されている。こうした要約から欠落している箇所についてある程度復元することができる。 リウィウスはピクトル、クァドリガリウス、アセッリオ、ウァレリウス・アンティアスといった年代史家を自身の典拠として使用している。対してアウレリウス・ウィクトル、カッシオドルス、エウトロピウス、フェストゥス、フロルス、グラニウス・リキニアヌス、パウルス・オロシウスなどはリウィウスの業績を参考にしている。ユリウス・オブセクエンスの『驚異の書』もリウィウスの抜粋を利用して書かれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ティトゥス・リウィウス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Livy 」があります。 スポンサード リンク
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