翻訳と辞書
Words near each other
・ ルアン・プラバーン王国
・ ルアー
・ ルアー (競走馬)
・ ルアーテーパー
・ ルアーフィッシング
・ ルアーブル
・ ルアーブル中心街
・ ルアーヴル
・ ルアーヴル (競走馬)
・ ルアーヴル中心街
ルィシャルト・カプシチンスキ
・ ルィシャルド・シュルコヴスキ
・ ルィビンスク
・ ルィブニク郡
・ ルィブニツァ
・ ルィリスク
・ ルィリスク公
・ ルィリスク公国
・ ルィン砂漠
・ ルィーポヴェツィ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ルィシャルト・カプシチンスキ : ミニ英和和英辞書
ルィシャルト・カプシチンスキ
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ルィシャルト・カプシチンスキ ( リダイレクト:リシャルト・カプシチンスキ ) : ウィキペディア日本語版
リシャルト・カプシチンスキ

リシャルト・カプシチンスキ(、1932年3月4日 - 2007年1月23日)は、ピンスク出身のポーランド人ジャーナリスト作家、新聞社通信員。世界中から「20世紀の最も偉大なジャーナリスト」〔〕〔〕、「最も生気にあふれた報道記者」〔〕と評価される、現代ジャーナリズムの巨人。
== 生涯 ==
カプシチンスキは、1932年3月4日、当時東ポーランド領だったピンスク(現ベラルーシ領)に生まれる。彼は教育者の家族の中で育った。1940年シベリア送りになる寸前のところで母親と共に逃亡。父親はカティンの森事件に送られるはずであったが、輸送の列車から逃亡を図り、ワルシャワの郊外で家族と再会する。
1945年、カプシチンスキと家族はワルシャワに移った。1952年にワルシャワ大学で歴史学を学び始め、同級生だったアリツィア・ミェルチャレック()と結婚。1955年、初めてアジアに赴き、ジャワ島での非同盟諸国会議についてのルポルタージュを書く。1956年、修士号を取得して学業を終え、青少年向けの新聞「若者の旗」()で働き始める。
カプシチンスキは1956年から1957年まで中国に駐在し、そこから記事を執筆。1年後、ポーランドの通信社PAP()の通信員となり、その依頼でアフリカに行く。ポーランドに戻ってからは、雑誌「ポリティカ」()の編集に携わる。1962年、またもPAPの仕事でアフリカに渡る。
1967年、アフリカ駐在が終わると同時にソ連に出かける。この年は南アメリカにもでかけ、ここでもPAPの通信員として記事を送り続ける。その他にもアフリカ、アジア、そしてラテンアメリカと旅を続ける。さらに、彼はポーランドの雑誌「コンティネンティ」()の顧問にも就任した。1994年、DAADのゲストとしてベルリンにも滞在している。2003年アストゥリアス皇太子賞コミュニケーションおよびヒューマニズム部門を受賞。
2007年1月23日、ワルシャワのバナハ病院で心臓手術の後亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リシャルト・カプシチンスキ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.