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ルイージ・ケルビーニ(Luigi Cherubini, 1760年9月14日フィレンツェ - 1842年3月15日パリ)はイタリア出身のフランスの作曲家・音楽教師。本名はマリア・ルイージ・カルロ・ゼノビオ・サルヴァトーレ・ケルビーニ(Maria Luigi Carlo Zenobio Salvatore Cherubini)。 == 生涯 == 6歳の時に音楽家の父親から音楽教育を受け、13歳までに宗教曲をいくつか作曲した。1778年から1780年まで、ボローニャとミラノで音楽を学ぶ。 1788年にパリに定住。翌年にオペラ作曲家として不完全な成功をおさめる。最初の大きな成功は、オペラ『ロドイスカ』(''Lodoïska'', 1791年)で、この作品は真に迫ったヒロイズムが称賛された。 これに続くのが、ケルビーニの最も有名な作品である『メデア』(''Médée'', 1797年)と、『二日間、または水の運搬人』(''Les deux journées, ou Le porteur d'eau'', 1800年)である。しかし、大歌劇場から締め出されていたために、ケルビーニは作品を小さなドゥ・ラ・フォワール・サン=ジェルマン座(Theatre de la Foire Saint-Germain)で上演せざるを得なかった。理想主義や独立不羈といった気骨や、作品のとりわけ厳粛で高邁な性質のために、ケルビーニは当時の人気作曲家たり得なかった。とはいえ1795年になると、ケルビーニの運は心持ち上向きになり、音楽院(現・パリ国立高等音楽院)の視察官に任命された。 1805年にケルビーニはウィーンに招聘され、オペラを作曲して、手ずから指揮するように依頼された。翌1806年に『ファニスカ』(''Faniska'' )の上演が制作されると、とりわけハイドンやベートーヴェンの熱心な支持をかち取った。 ケルビーニは劇場での不運を嘆いて、徐々に宗教音楽に向かい出し、7つのミサ曲と2つのレクイエムの他、多数の小品を作曲した。この間ケルビーニは、王政復古の下で「王室音楽監督」(surintendant de la musique du roi)にも任命された。1815年にロンドン・フィルハーモニック協会の依嘱で、交響曲、演奏会用序曲、オーケストラつき合唱曲を作曲、これらの上演のためにロンドンに渡って指揮を行い、これによっていっそうの国際的名声を勝ち得た。 ルイ16世の処刑を悼んで作曲された『レクイエム ハ短調』(1816年)は、非常に大きな成功をおさめた。この作品はベートーヴェンだけでなく、シューマンやブラームスにも絶賛されている。ハンス・フォン・ビューローはこの作品を「モーツァルトのレクイエムよりも優れている」と評価した。なお、ケルビーニ自身がハイドンやモーツァルトの支持者だった。 1822年にケルビーニはパリ音楽院院長に就任し、1835年に「対位法とフーガの教則本」(''Cours de contrepoint et de fugue'' )を上梓した。 81歳でパリに永眠した。墓はペール・ラシェーズ墓地の、ショパンの墓の4つ左隣にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルイジ・ケルビーニ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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