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ルイス農園の戦い(ルイスのうえんのたたかい、、またはクエーカー道路の戦い、軍事道路の戦い、グレイブリーランの戦い)は、南北戦争も最終盤となった1865年3月29日に、バージニア州ディンウィディ郡で起きた戦闘である。通常はピーターズバーグ包囲戦と呼ばれるリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦〔この方面作戦は、南軍とピーターズバーグ、リッチモンド両市が包囲されることはなかったので真の意味で包囲戦ではない。戦闘はピーターズバーグ以外の場所、主にリッチモンドの地域で起こった。詳細はリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦を参照〕の最後の決戦となった戦いはこのルイス農園で始まった。ユリシーズ・グラント中将が指揮する北軍が、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍をピーターズバーグとアメリカ連合国の首都であるリッチモンド両市の防衛的前線から追い出した。歴史家の多くやアメリカ合衆国国立公園局はこのルイス農園の戦いをアポマトックス方面作戦の最初の戦闘であると考えている。この方面作戦は1865年4月9日のリー軍の降伏に繋がった〔Bryce A. Suderow, in his introduction to Chapter 5 of Ed Bearss's 2014 edition of Volume II of ''The Petersburg Campaign: The Western Front Battles, September 1864–April 1865'', この戦闘は「ファイブフォークス方面作戦と見られるべきものの最初の戦闘」と考えるべき、と言っている。Bearss, 2014, p. 313.〕〔National Park Service Civil War Battle Summaries by Campaign (Eastern Theater) .〕〔Calkins, Chris M. ''The Appomattox Campaign, March 29 – April 9, 1865''. Conshohocken, PA: Combined Books, 1997. ISBN 978-0-938-28954-8. p. 12.〕。 1865年3月29日早朝、北軍のポトマック軍に属するガバヌーア・ウォーレン少将指揮下の第5軍団と、アンドリュー・A・ハンフリーズ少将の指揮する第2軍団の2個軍団が、ピーターズバーグ市から南、北軍の前線からは南と西に動いて、南軍の前線の終端に向かった。南軍の防衛軍はリチャード・H・アンダーソン中将の指揮する北バージニア軍第4軍団だった。この軍団にはブッシュロッド・ジョンソン少将の1個師団が入っているだけだった。 ウォーレンの先遣旅団はジョシュア・チェンバレン准将が指揮しており、北に転じてクエーカー道路を南軍の前線に向かって前進し、ルイス農園でジョンソン師団の3個旅団との戦闘になった。北軍は4門の大砲を持った砲兵大隊に補強され、さらに後にはエドガー・M・グレゴリー大佐(名誉准将)の指揮する旅団から2個の大型連隊にも救援され、南軍をその防衛線まで押し返し、重要な道路の交差点を確保した。チェンバレンが負傷し、辛うじて捕虜になるのを免れた。北軍のアルフレッド・L・ピアソン大佐(名誉准将)は、この戦闘から32年後にその英雄的行動で名誉勲章を与えられた。 この戦闘での損失は、北軍381名、南軍371名とほぼ同数だったが、戦闘が終わったときに、ウォーレンの軍団がボイドトン板張り道路とクエーカー道路の交差点という重要な目標を保持した。戦闘から数時間のうちに、このときはまだポトマック軍とは別にシェナンドー軍として行動していたフィリップ・シェリダン少将の騎兵軍団がディンウィディ・コートハウスを占領した。この行動はボイドトン板張り道路を確保することにもなった。北軍は南軍の防衛線に接近し、南軍の側面を攻撃できる位置に就いた。そこはファイブフォークスの重要な道路交差点であり、ピーターズバーグ市とリッチモンド市にまだ通じていた2つの鉄道線があった。 1865年4月2日から3日、南軍はピーターズバーグ市とリッチモンド市から脱出し、西への移動を始めた。多くの挫折や小さな戦闘が起き、4月6日にはセイラーズクリークの戦いで南軍が重大な敗北を喫し、リーは1865年4月9日に、リンチバーグの東約25マイル (40 km) にあるアポマトックス・コートハウスで、グラントとその追撃してくる北軍に降伏した。1865年6月末までに南軍の全ての軍隊が降伏し、アメリカ連合国政府が崩壊した。 == 背景 == === リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦 === 1864年6月15日から18日、北軍2個軍団がリッチモンド市のすぐ北、手詰まりとなっていた戦線からジェームズ川を越えてピーターズバーグ市の南まで、感知されずに移動した。この部隊はピーターズバーグでジェームズ軍と合流したが、第二次ピーターズバーグの戦いで南軍の小勢の守備隊から市を奪うことができなかった。1864年6月18日までに、南軍の北バージニア軍は守備隊を補強し、291日に及んだリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦(ピーターズバーグ包囲戦)が始まった〔Hess, Earl J. ''In the Trenches at Petersburg: Field Fortifications & Confederate Defeat''. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2009. ISBN 978-0-8078-3282-0. pp. 18–37.〕。 グラントの戦略は、南軍を疲弊させる塹壕に入った消耗戦とならざるを得ず、ピーターズバーグとリッチモンドへの供給源と供給線を破壊または遮断し、勢力的に劣り衰退していく南軍が限界まで守ることになる戦線を拡大した〔Beringer, Richard E., Herman Hattaway, Archer Jones, and William N. Still, Jr. ''Why the South Lost the Civil War''. Athens: University of Georgia Press, 1986. ISBN 978-0-8203-0815-9. pp. 331–332.〕〔Trudeau, Noah Andre. ''The Last Citadel: Petersburg, Virginia, June 1864–April 1865''. Baton Rouge: Louisiana State University Press, 1991. ISBN 978-0-8071-1861-0. p. 18.〕。 1864年の残り期間と1865年の初期、グラントはピーターズバーグの南の戦線にあったその軍隊を緩りと西に動かし、ピーターズバーグを6度攻撃し、同時にリッチモンドあるいはその近くも攻撃した〔Hess, 2009, pp. 18–37.〕〔Sommers, Richard J. ''Richmond Redeemed: The Siege at Petersburg''. Garden City, NY: Doubleday, 1981. ISBN 978-0-385-15626-4. p. 2.〕。南軍はこれらの動きに対応するためにその前線を伸ばしていったが、その厚みが薄くなっていった〔Weigley, Russell F. ''A Great Civil War: A Military and Political History, 1861–1865''. Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, 2000. ISBN 978-0-253-33738-2. p. 432.〕。リーは物資や兵員を補充するのが次第に難しくなり、絶対的に増え続けている北軍からピーターズバーグとリッチモンド両市を守ることができないことが分かっていた。特に北軍が最近徴兵して訓練していた兵士が到着することが予測され、シェナンドー渓谷で戦っていたフィリップ・シェリダンの騎兵師団が到着することや、既にノースカロライナ州で作戦展開していたウィリアム・シャーマン少将の軍隊が、春の雨が止んで道路が乾いた後にバージニアに移動してくる可能性が強いことも知っていた〔Trudeau, 1991, pp. 324–325.〕〔Greene, A. Wilson. ''The Final Battles of the Petersburg Campaign: Breaking the Backbone of the Rebellion''. Knoxville: University of Tennessee Press, 2008. ISBN 978-1-57233-610-0. p. 111〕〔Hattaway, Herman, and Archer Jones. ''How the North Won: A Military History of the Civil War''. Urbana: University of Illinois Press, 1983. ISBN 978-0-252-00918-1. pp. 669–671.〕。 1865年2月5日から7日に起きたハッチャーズランの戦いの後、前線はさらに4マイル (6.4 km) 伸び、リーが新しい守備隊を入れた後はもう予備隊がほとんど無かった〔リーは拡張された前線を守るために、予備隊3部隊のうちの2隊を使うしかなくなった。Bearss, Edwin C., with Bryce A. Suderow. ''The Petersburg Campaign''. Vol. 2, ''The Western Front Battles, September 1864 – April 1865''. El Dorado Hills, CA: Savas Beatie, 2014. ISBN 978-1-61121-104-7. p. 239.〕〔シェルビー・フットは、南軍の前線が3マイル (4.8 km) から37マイル (60 km) まで伸び、「再発したデコボコや複合は除外しても」「現役任務にあったのは」46,398名まで減少していたと述べていた Foote, 1974, p. 785.〕〔Weigley, 2000, p. 433.〕〔Foote, Shelby. ''The Civil War: A Narrative''. Vol. 3, ''Red River to Appomattox''. New York: Random House, 1974. ISBN 978-0-394-74622-7.〕。その軍隊の一部あるいは全体がリッチモンドとピーターズバーグの前線を離れたとして、ダンビルあるいはおそらくリンチバーグで食料や物資を補給し、シャーマン軍に対抗しているジョセフ・ジョンストンの軍隊と合流しなければならないことが分かっていた。南軍が即座にシャーマン軍を破れなければ、グラント軍がシャーマン軍の残りと合流できる前に、グラント軍に対抗するために戻って来ることになるはずだった〔Greene, 2008, p. 154.〕〔Calkins, 1997, pp. 14, 16.〕〔Hess, 2009, p. 253.〕〔Longacre, Edward G. ''The Cavalry at Appomattox: A Tactical Study of Mounted Operations During the Civil War's Climactic Campaign, March 27 – April 9, 1865''. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2003. ISBN 978-0-8117-0051-1. p. 39.〕。リーは移動のための準備を始め、アメリカ連合国大統領のジェファーソン・デイヴィスと陸軍長官ジョン・ブレッキンリッジにその結論と作戦を知らせた〔〔Trudeau, 1991, pp. 324–325.〕〔Hattaway, 1983, pp. 669–671.〕。 リーは、ジョン・B・ゴードン少将の提案する北軍の前線を破り、ピーターズバーグの東、アポマトックス川の南のステッドマン砦の近くにある狭い前線にそって攻撃することでシティポイントの物資基地を脅かそうという作戦を認めた。これはグラントにその前線を少なくとも一時的に短くさせることになるはずだった〔Trudeau, 1991, pp. 337–352.〕。もしこれに成功すれば、リーがその前線を短縮して西への移動を即座に開始でき、ノースカロライナ州に向かう可能性を得られる可能性があった〔Greene, 2008, p. 108.〕〔Davis, William C. ''An Honorable Defeat: The Last Days of the Confederate Government''. New York: Harcourt, Inc., 2001. ISBN 978-0-15-100564-2. p. 49.〕。 1865年3月25日夜明け前、ステッドマン砦に対するゴードン隊の急襲は当初成功したが、その後のステッドマン砦の戦いで北軍が反撃して砦を奪い返し、南軍をその防衛線に押し戻し、ジョーンズ農園の戦いの午後にはその前線の西部の大半を含めて、前衛哨戒線を諦めるしかなくなった。南軍は約4,000名の損失を出し、それを補充できなかった〔Trudeau, 1991, pp. 337–352.〕〔Greene, 2008, pp. 114–115.〕〔Calkins, 1997, p. 12.〕。ステッドマン砦での敗北後、リーはその軍隊の一部を派遣することができず、さらにピーターズバーグとリッチモンド守備を維持できないことが分かった。またピーターズバーグへの供給線として残っているサウスサイド鉄道とボイドトン板張り道路に対して、現在の防衛線の端を回って、グラント軍が動いて来ることも分かっていた〔〔Calkins, 1997, p. 16.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルイス農園の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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