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ルイトポルト・イン・バイエルン : ミニ英和和英辞書
ルイトポルト・イン・バイエルン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ルイトポルト・イン・バイエルン : ウィキペディア日本語版
ルイトポルト・イン・バイエルン
ルイトポルト・エマヌエル・ルートヴィヒ・マリア・イン・バイエルンLuitpold Emanuel Ludwig Maria Herzog in Bayern, 1890年1月30日 ミュンヘン - 1973年1月16日 )は、ドイツバイエルン王家の傍系バイエルン公爵家(Herzog in Bayern)の公子。美術史家。
バイエルン公マックス・エマヌエルとその妻でザクセン=コーブルク=ゴータ公子アウグストの娘であるアマーリエの間の第3子、三男として生まれた。1893年に父を、翌1894年に母を相次いで亡くしたため、伯父のカール・テオドールの後見を受けて育つ。ミュンヘン大学で哲学と美術史学の研究にいそしみ、ハインリヒ・ヴェルフリンに師事した。1922年、ヴェルフリンの指導下で「中世後期におけるフランケン地方のタペストリー制作(Fränkische Bildwirkerei im Spätmittelalter)」と題した学位論文を執筆し、人文学博士号を受けた。
1911年より、との間に位置するリングベルク(Ringberg)に、新しい城の建設を始めた。以後、60年以上にわたるの建設資金を捻出するため、ルイトポルトは私財をつぎ込んだのみならず、親兄弟や親族から相続したやポッセンホーフェン城、およびそれらの城館に付属する広大な庭園と地所を売却した。第2次世界大戦後には、に所有していた広範囲にわたる森林およびカルヴァリエンベルク(Kalvarienberg)の地所を手放した。生涯独身を通し、城の完成を見ることのないまま1973年に82歳で死去した〔Norbert Nemec: ''Erzherzogin Maria Annunziata (1876-1961): Die unbekannte Nichte Kaiser Franz Josephs I.'', Böhlau Verlag Wien 2010, S. 107〕〔ルイトポルトはヴィッテルスバッハ家の門流の1つプファルツ=ゲルンハウゼン家の最後の男系子孫であった。〕。遺骸は荼毘に付され、骨壺はリングベルク城礼拝堂(Ringbergkapelle)に納められた。
生前に結ばれていた相続協定に基づき、相当額の維持費を必要とするリングベルク城はマックス・プランク研究所(MPG)に遺贈された。その後、MPGおよびミュンヘン再保険会社(Münchner Rückversicherungsgesellschaft AG)など他の後援者の資金提供により、リングベルク城は最終的に完成を見た。現在、同城はMPGのゲストハウスとして利用されている。
== 参考文献 ==

* Norbert Nemec: ''Erzherzogin Maria Annunziata (1876-1961): Die unbekannte Nichte Kaiser Franz Josephs I.'', Böhlau Verlag Wien 2010, ISBN 3205784561
* Hermann von Witzleben: ''Die Herzöge in Bayern'', Prestel Verlag, München 1976, ISBN 3791303945

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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