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ルイトポルト家 : ミニ英和和英辞書
ルイトポルト家[るいとぽるとか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

ルイトポルト家 : ウィキペディア日本語版
ルイトポルト家[るいとぽるとか]
ルイトポルト家(, )は、中世ドイツにおいてバイエルン大公を輩出した諸侯の家系である。ルイトポルディング家ともいわれる。
==概要==
同家の祖ルイトポルトは、東フランク王カールマンの側近であり〔成瀬他、p.94。東フランク王アルヌルフの親族ともいわれている。〕、893年には東フランク王アルヌルフによりバイエルン辺境伯とされ、バイエルン全域の統治を委託された〔成瀬他、p.94,95〕。さらにルイトポルトはアルヌルフの死後、その子幼王ルートヴィヒ4世と摂政となったが、907年マジャール人との戦いにおいてプレスブルク(ブラチスラヴァ)近郊で戦死した〔成瀬他、p.99,100〕。
ルイトポルトの後は子のアルヌルフ(悪公)が相続したが、アルヌルフは教会高権も含めたバイエルンの自立的支配権を握って〔服部、p.8〕みずから「大公」を名乗り〔成瀬他、p.111〕、母方の伯父にあたるシュヴァーベン大公エルハンガーおよびベルトルトの兄弟とともにコンラディン家出身のドイツ王コンラート1世(母の再婚相手)と対立し、一時ハンガリーに亡命するに至った〔成瀬他、p.102〕。917年に亡命から帰国したアルヌルフは、国王コンラート1世によりバイエルンに派遣されていた国王の弟エーバーハルトを追放し、さらに進軍してきたコンラート1世に傷を負わせ、退却させている〔成瀬他、p.102〕。国王コンラート1世はこの時の傷がもとで翌918年死去した。一説には翌年、アルヌルフは「バイエルン人と東フランケン人に切望されて王となった」〔成瀬他、p.113〕とされる。しかし、新王ハインリヒ1世921年の二度目のバイエルン遠征においてアルヌルフは降伏し、このときアルヌルフはハインリヒ1世からバイエルンにおけるこれまでの一切の権利と大公位を追認され、バイエルンにおける統治をまかされた〔成瀬他、p.114〕。
アルヌルフの死後は子のエーバーハルトが大公となったが、938年に皇帝オットー1世に対し教会高権の返還を拒否し追放された〔服部、p.8〕。その後はアルヌルフ悪公の弟ベルトルトが大公位を継承したが、947年、ベルトルトが死去した際、ベルトルトに男子相続人がいたにも関わらず、皇帝オットー1世は自身の弟でアルヌルフ悪公の婿にあたるハインリヒ1世にバイエルン大公位を授けた。のち、ハインリヒ1世の子ハインリヒ2世の反乱により、ベルトルトの子ハインリヒ3世はバイエルン大公位を取り戻すが、985年にバイエルン大公位はハインリヒ2世に再び戻され、ハインリヒ3世にはかわりにケルンテン大公位が与えられた〔成瀬他、p.130〕。ハインリヒ3世は989年死去し、大公位は同家から離れた。なお、同家(アルヌルフ悪公)からヴィッテルスバッハ家〔ノルトガウ伯ベルトルト・フォン・シュヴァインフルト(980年没)をアルヌルフ悪公の子とし、ヴィッテルスバッハ家の祖としている(B.Hubensteiner, p.499)〕やバーベンベルク家〔オーストリア系バーベンベルク家の祖リウトポルト1世(レオポルト1世)をアルヌルフ悪公の孫としている(K.Lechner, Genealogie)〕〔服部、p.9〕が出たとされる説もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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