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ルイ・ド・ナヴァール : ミニ英和和英辞書
ルイ・ド・ナヴァール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルイ・ド・ナヴァール : ウィキペディア日本語版
ルイ・ド・ナヴァール[ちょうおん]

ルイ・ド・ナヴァールLouis de Navarre, comte de Beaumont-le-Roger, duc de Durazzo, 1341年頃 - 1376年)は、フランス王家傍系エヴルー家の公子、ナバラ王子、。ドゥラッツォ女公ジョヴァンナとの結婚により、さらにドゥラッツォ公の称号を帯びた。
== 生涯 ==
ナバラ王フィリップ3世と女王ジャンヌ2世の間の第8子、三男、末息子として生まれた。母ジャンヌ2世はフランス王ルイ10世の娘ながら、女子相続を禁じたサリカ法典のためにフランス王位継承権者の列から排除され、ナバラ王位のみを受け継いだ。こうした事情から、ナバラ王家の一族はヴァロワ家のフランス王位に挑戦する姿勢を見せていた。
1358年、マリア・デ・リザラズ(Maria de Lizarazu)と最初の結婚をする。しかしこの身分違いの結婚は長兄のナバラ王シャルル2世(悪人王)の認めるところとならず、間に生まれた子供たちは庶子扱いとなった。1360年〔Vgl. Beaumont-le-Roger bei ''mittelalter-genealogie''〕、締結に伴って百年戦争の第1局面が終わりを迎えると、フランス王家とエヴルー家も和解し、ルイもフランス王権に占拠されていたボーモン伯領を取り戻した。
1366年、アンジュー=シチリア家の王女の1人、ドゥラッツォ女公ジョヴァンナと結婚した。ドゥラッツォ(ドゥラス)はアルバニアにおけるアンジュー家支配の拠点だったが、1367年にアルバニア人の諸侯によって占領された。ルイは妻の所領を奪還すべく、兄シャルル悪人王や、かつては一族の敵であったフランス王シャルル5世の援助を求めた。その際、ボーモン伯領をフランス王の抵当に入れた。
1372年、ルイはを組織した。この傭兵団は以前からフランス領内に存在していたが、ナバラで募兵を実施したことで、さらに大きな規模となった。ルイは軍団を引き連れてアルバニアに上陸し、1376年の夏にドゥラッツォを奪回したが、その直後に死去した。ジョヴァンナとの間に子供は無かった。
妻と認められなかったマリア・デ・リザラズとの間に、以下の4人の子供をもうけた。
*フアナ(1359年頃 - 1392年以降) - Pedro de Laxageと結婚
*(1361年頃 - 1432年) - ナバラ王国大元帥
*トリスタン(生没年不詳) - パンプローナ司教座聖堂参事会員
*ルイス(生没年不詳)
ルイの長男カルロスを祖とするボーモン家(レリン伯爵家)は、ナバラ王国で最も権勢の強い大貴族家門の1つとなり、15世紀中葉のナバラ内戦ではビアナ公カルロスを支持する派の領袖となった。現在のアルバ女公はボーモン家の血筋を引いている〔第3代アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドの三男ディエゴ・アルバレス・デ・トレドと、レリン伯爵家の女子相続人の間の息子が、第5代アルバ公となり、その直系子孫が現在も続いている。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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