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ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアート : ミニ英和和英辞書
ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアート[あーと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アート : [あーと]
 【名詞】 art

ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアート : ウィキペディア日本語版
ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアート[あーと]

ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアートLouisa Maria Teresa Stuart, 1692年6月28日 サン=ジェルマン=アン=レー城サン=ジェルマン=アン=レー - 1712年4月18日 サン=ジェルマン=アン=レー城)は、イングランドスコットランド王家ステュアート家の王族で廃位されたイングランド・スコットランド王ジェームズ2世(7世)の末娘で、ジャコバイト王位請求者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(大僭称者)の同母妹。ジャコバイトにはプリンセス・ロイヤルとして扱われた。現在も活動するスコットランド人のジャコバイト支持派により「海の彼方の王女(Princess over the Water)」と呼ばれている〔Publications of the Royal Stuart Society at royalstuartsociety.com – web site of the Royal Stuart Society (accessed 11 February 2008)〕〔SCOTTISH ROYAL LINEAGE – THE HOUSE OF STUART Part 4 of 6 online at burkes-peerage.net (accessed 9 February 2008)〕。
== 出生 ==
ジェームズ2世(7世)とその2番目の妻でモデナ公アルフォンソ4世の娘であるメアリー王妃の間の末娘として、両親の亡命先であるフランスサン=ジェルマン=アン=レー城で生まれた〔Princess Louisa Maria Theresa Stuart (1692–1712), Daughter of James II at npg.org.uk (accessed 8 February 2008)〕。ジェームズ2世はルイーザの誕生に際して、王位を簒奪した娘メアリー2世のみならず、多くのプロテスタント信徒の貴婦人に手紙を書き、末娘の誕生に立ち会うよう求めた〔Beatty, Michael A., ''The English Royal Family of America, from Jamestown to the American Revolution'' (London, McFarland, 2003) pp. 83–85〕。これは1688年カトリック信徒のメアリー王妃が息子のジェームズ・フランシス・エドワードの誕生の際に、実際は死産したのに別の赤ん坊を真鍮製のあんかに入れてベッドの中に潜り込ませ、王子に仕立て上げたという疑いをかけられたこと(これが名誉革命の引き金となった)を踏まえ、今回は予防線を張ったのである。
ホイッグ史観の代表的な歴史家マコーリー卿は、ジェームズ2世のこの用心深さについて以下のように叙述している。

もし国王がこうした幾人かの証人を1688年6月10日の朝にセント・ジェームズ宮殿に招いていれば、ステュアート家は今でも我々の住むこのブリテン島を治めていたかもしれない。だが王冠とは取り戻すよりも確保する方が簡単なものである。たしかに、この言い掛かり同然の作り話が革命の勃発に大きな役割を果たした可能性はあるだろう。しかしこの作り話に対する最も道理の通った反論ですら、ジェームズ王の復位をもたらすことは無かった。ジェームズ王の招きに応じて海峡を渡った貴婦人は一人もいなかった。王妃は無事に女児を出産したものの、この出来事がイングランドの公衆の感情に何らかの影響を与えることは無かった〔Macaulay, Thomas Babington, ''The History of England, from the Accession of James the Second'', Vol 4 (1855) Chapter XVIII (1692), p. 225 online at books.google.com (accessed 10 February 2008)〕 。

ルイーザの存命中の兄弟姉妹には同母兄のジェームズ王子の他に、グレートブリテン島に留まった2人の異母姉、メアリー2世とアン女王、父と共にフランスへ渡った異母兄ジェームズ・フィッツジェームズがいた。メアリー2世はルイーザが2歳の時に亡くなったが、アンは異母妹ルイーザに友好的な態度を示した〔。生まれた王女は洗礼に際してルイーザ・マリア(''Louisa Maria'')の名を授けられ、堅信礼に際してテレーザ(''Teresa'')の名を加えた〔。ルイーザとは王女の洗礼の代父を務めたフランス王ルイ14世に因むものだった〔。洗礼の代母はルイ14世の義妹であるオルレアン公フィリップ1世夫人エリザベート・シャルロットが務めた〔。
ジェームズ2世は末娘ルイーザを、苦境にある両親の辛さを和らげるために神が遣わした慰めだと見なし、成長したルイーザはしばしば慰めを意味する「ラ・コンソラトリス(''La Consolatrice'')」と呼ばれた〔Callow, John, ''The King in Exile: James II, Warrior, King and Saint, 1689–1701'' (London, Sutton, 2004) pp. 203–204〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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