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ルイ18世(、1755年11月17日 - 1824年9月16日)は、復古王政期のブルボン朝のフランス国王(1814年4月6日 - 1815年3月20日、1815年7月8日 - 1824年9月16日)。ナバラ国王としてはルイス7世()。 == 生涯 == === フランス革命の勃発から王政復古まで === 即位以前はプロヴァンス伯爵の称号で呼ばれた。妃はサルデーニャ国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の娘マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワだったが、2人の間に子供はできなかった。 1789年にフランス革命が起こると、兄ルイ16世のヴァレンヌ事件と同時に夫人と愛人を伴いトリーア大司教領のコブレンツに亡命する。1795年、革命政府によって幽閉されていたルイ16世の王太子ルイ・シャルルが死んだという風評が流れると、ルイ・シャルルがルイ17世と呼ばれていたことから、自らはルイ18世を名乗った。その後、政権を獲得したナポレオン・ボナパルトと王位を巡る駆け引きを起こしたが、ナポレオン戦争の開始によってうやむやとなった。ただし当初は、連合国から生死のはっきりしないルイ17世の摂政に過ぎないとされ、2年間は名目上の国王とされた。元々フランスの王位継承者候補にはスウェーデン=ノルウェー王太子となっていたジャン=バティスト・ベルナドットが推されていたが、連合国でも見解が分かれ、最終的にはフランスの全権を担ったタレーランとフランス元老院の支持の元、ブルボン家の復位が果たされたことになる。 その後ロシア領の首都ミタウ()に定住するが、1801年1月20日、パーヴェル1世からロシア国外への退却命令を受け、姪のマリー・テレーズ(ルイ16世の王女、アングレーム公爵夫人)に支えられながら真冬のロシアからプロイセン領メーメルに逃れた。同地でプロイセン王妃ルイーゼの尽力により、ナポレオンから「ルイ18世はリル伯爵、マリー・テレーズはラ・マイユレイ侯爵夫人と名乗ることを条件に、亡命王室と側近をワルシャワに滞在させる」という手紙を受け取り、3月6日にワルシャワ入りし、亡命宮廷を開いた。ナポレオンの勢力が強まると、1805年4月、亡命王室は再びロシアのミタウに戻った。しかし、ロシア皇帝アレクサンドル1世から、まもなくロシアはナポレオン軍に敗戦することとスウェーデン=ノルウェー王グスタフ4世が亡命宮廷の避難場所を提供すると聞き、甥のアングレーム公爵とストックホルムに向かったのち、1807年11月2日、イギリスのバッキンガム侯爵とオルレアン公爵(後のフランス王ルイ=フィリップ)の支援を受けイギリスのヤーマスに上陸した。 フランス亡命宮廷はジョージ3世の摂政王太子(後のジョージ4世)による保護と援助を受けた。翌1809年、フランス亡命宮廷はバッキンガムシャーのハートウェル・ハウスに移転した。イギリスへ向かう前から体調を崩していた妃マリー・ジョゼフィーヌは、1810年11月13日に死去した。1814年、ナポレオン1世が対仏大同盟軍によって追われ、その後のウィーン会議でイギリスなど諸外国からブルボン朝の王政復古が支持されたため、フランスに戻って即位した。 ナポレオンが再起を図ってフランスに舞い戻ると、ルイ18世は上陸するナポレオンを逮捕するために、軍隊を南フランスに差し向けたが、多くの兵士はかえってナポレオンの配下に入り、パリに向けて進軍した。ルイ18世はフランスから再び逃亡した。しかしナポレオンの復帰が百日天下に終わると、再びフランスに戻って即位し、親政を開始した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルイ18世 (フランス王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Louis XVIII of France 」があります。 スポンサード リンク
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