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ルートヴィヒ1世(ドイツ語:Ludwig I, 778年 - 840年6月20日)は、フランク王国カロリング朝の国王(在位:814年 - 840年)・西ローマ皇帝(在位:814年 - 840年)。カール大帝の第3子で、大帝死後も唯一生存していた男子である。フランス語ではルイ1世(Louis I)。「ルイ敬虔王(敬虔帝)」とも呼ばれる。 == 生涯 == 父・カール大帝の領有した大帝国は当初3分割されて相続される予定であったが、長兄のカールと次兄のピピンが亡くなり、兄弟はルートヴィヒ以外みな早逝してしまったために単独相続することとなった。813年に父の共同皇帝とされたが、翌年に父が没するとフランク国王の地位を継承するとともに、単独の皇帝として統治をはじめた。 信仰心はきわめて厚かったが、優柔不断な性格だったと伝わる。カール大帝は庶民感覚を忘れなかった人で、多くの歌物語を蒐集して記録させたが、ルートヴィヒ1世はキリスト教的ではないとして焼却してしまっている。 817年にはアーヘンの王宮の一部が崩壊し破損したことを、死の訪れをあらわす神の意志と判断し、帝国計画令を発布した。帝国計画令では、帝国の領土をフランク族の伝統にしたがって3人の子供に分け与えることとし、長男のロタールにはイタリアを含む広範な領土の、次男のピピンにはアクイタニアの、三男のルートヴィヒにはバイエルンの統治を委ねることとして、ロタールを共同皇帝とし、下の2人を副帝として皇帝の統制に従うことを定めた。フランク王国の慣習である分割相続の慣習と帝国の統一の保持の両方を実現しようという妥協的な計画であった。 こうした経緯の中、四男となる末子シャルル(フランス語。ドイツ名ではカール)が誕生する一方、ピピンは早世した。ルートヴィヒ1世自身はシャルルを溺愛し、彼にも王国を分け与えようとしてロタールらの反発を買い、再三にわたり廃位されるものの、その度に復権した。結局ルートヴィヒ1世は息子達の相続に決着を付けることのないまま840年に死去した。彼の死後、兄弟間の抗争は武力衝突にまで発展し、王国の分裂の原因をつくることとなった(ヴェルダン条約の項を参照)。 分裂後に成立したシャルルの国は西フランク王国となり、後のフランス王国につながる。 フランスではこのルイ敬虔王と同名の王を多く輩出、カペー朝の聖王ルイの9世などはこのルイ敬虔王を1世と数えての数字である。ヴァロワ朝以降もルイ王がおり、特に絶対王政で有名なルイ太陽王が14世として君臨したブルボン朝はルイ王朝と言われるほどルイ王が多い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルートヴィヒ1世 (フランク王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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